2017/09/05

工房小説 『思い込んだら百里の道を』 後編

 とんでもないことを言い出したメイリン。
 このあとどうなってしまうのか…!?


 …まあ、このブログは18禁を載せられないので展開予測は簡単なんですが(笑
 もっとも、ヘタレな工房主に18禁展開を望むのは無茶な話ですよ。うん。




 この作品はフィクションです。
 登場する団体・人物等は現実のものと一切関係ありません。



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「…………」
 工房主は、恐ろしいほど無感情な目でメイリンを見ていた。
「……メイリン。自分が何を言ってるか、それがどういう意味か、わかってるんだよね?」
「もちろんです。主さんに同行をお願いしたときから、こうしようと決めていました」
「なるほど。さっき私がエキサイトしてまで話したことは理解できていないということだね」
「いいえ。理解した上でこうしています。私は何をされても構いません。覚悟はできています」
 性的な行為に興味があり、本気で誘惑されたら抗えない。そう言った工房主に、その通りにしていいと言い放ったのだ。
「……そう。わかった」
 メイリンの表情は真剣で、これが芝居なのか本気なのかはわからない。いかにメイリンの芝居を見抜く特殊スキルを持つ工房主と言えど、それはメイリンのコンディションが不完全な場合に限るという条件が付く。ベストの状態で普段のメイリンではない『メイリン』を演じられてしまっては工房主とて芝居を見抜くのは不可能に近い。
 ならば――工房主が取る行動は一つしかない。
「好きにしていいんだよね?」
「はい」
「どんな命令にも従う?」
「はい」
「じゃあ、まずはシャワーを浴びてきて」
「……わかりました」
 工房主の命令にメイリンは素直に起き上がり、ベッドを降りた。
 芝居であれ本気であれ、メイリンが好きにしてくれと言うのなら好きにするまでである。ここまできて何を躊躇う必要があろうか。後ろめたさが消え去ったわけではないが、今はそれを忘れさせる情念――怒りというべきか――のほうが強く工房主を支配していた。
「メイリン、お風呂から上がったらちゃんと服を着ること。パジャマを持ってきてるならそれで。メイド服は禁止。バスタオル一枚や下着姿は興醒めだからやらないように」
「……?」
「私は着衣が好きなんだ」
「あ……そういうことですか。わかりました、仰せのままに」
 スカートを両手で少し持ち上げ、深々と頭を下げて、メイリンはバスルームに入っていった。
 ――それから約三十分後。
 工房主の言いつけどおり、メイリンは持参していた水色のパジャマ姿で戻ってきた。温まって火照った顔と少し濡れた髪、石鹸の柔らかな匂い、無防備な薄着。これらが工房主の奥底のよからぬ部分を容赦なく刺激してくる。即座にメイリンを押し倒さなかったのは、これからしようと思うことを三十分間じっくり考えて手順をシミュレートしていたからである。その通りに行動して初めて、工房主はこの状況を納得できるものにできる。自身が言っていたように、今ここで衝動のままに襲い掛かっては後悔だけが残ると確信していた。
「……お待たせしました」
「うん。じゃあ、ベッドに」
「はい……」
 覚悟はできていると言ったものの、ソファからじっと見つめてくる工房主の視線にメイリンの身体は羞恥と緊張で強張っていた。ぎこちなくベッドに上がり、真ん中でぺたんと座る。
「……そんなにじっと見ないでください……恥ずかしいです……」
「これからもっと恥ずかしくなるのに?」
「…………」
「まぁ、いいか。仰向けに寝て、目を閉じて」
「……はい」
 工房主に言われるままに、メイリンはベッドに横になって目を閉じた。その途端、自分の心臓の鼓動が大音量で耳の奥に響き始めた。これからするであろうことがどういうもので、それがどういう意味を持つのかを否応なしに想像してしまう。
 ぱちん、と遠くで音がした。工房主が天井照明を消し、薄暗い間接照明に切り替えたのだということは、目を閉じたままのメイリンにはわからなかった。ただ、その音が行為の始まりを告げる合図のように聞こえただけである。
「いいかい、メイリン。目を閉じたままで、動かないように」
 工房主の低い声が、すうっと耳を通り抜ける。
 ぎっ、とベッドが小さく軋み、メイリンの右半身が少し沈んだ。近くに工房主の気配と息遣いを感じ、無意識にきゅっと身体に力が入る。
「力を抜いて。もっと楽にして」
「……はい」
 答えてメイリンは深く息を吐いた。すべてを工房主に委ねる準備ができた――と思う。
「主さん」
「うん?」
「私、男の人とは初めてですから……その……」
「大丈夫。心配しなくていいよ」
「はい……」
 緊張はまだ残るが、不思議と怖いとは思わなかった。工房主の様子がいつもと同じだからか、こういう状況を何度も想像していたからか。
 しゅるる、と衣擦れの音がやけに大きくメイリンの耳に響く。
 裸足のつま先に柔らかいものが触れ、ふわりと全身を覆った。決して軽くはない、心地良い重み。
 それがなんなのかをメイリンが悟るより早く――工房主は言った。
「じゃ、おやすみメイリン。私はソファで寝るから、君はベッドでそのまま寝なさい。これは命令だからね。文句も反論も聞きません。以上!」
 一世一代の覚悟を決めた乙女に布団を掛け、『就寝命令』を出した工房主は、一目散にソファに戻って毛布に包まってしまった。
「……え。……ええ? なんで?」
 あまりにも唐突な展開に、メイリンは律儀に目を閉じて不動のまま素っ頓狂な声を上げてしまった。
「私を好きにしていいんですよ? えっちなことしてもいいんですよ? どんな命令も聞きますよ?」
「だから早く寝なさいと命令しましたが何か?」
「えええええええ」
 さすがに不可解だと言わんばかりにメイリンは布団を跳ね上げて身体を起こした。薄暗い間接照明の下で、本当にソファで毛布に包まって顔だけ出している工房主を見て、くらりとめまいを起こす。
「いえあの。もっと恥ずかしいことするんですよねぇ?」
「女の子が私みたいなおっさんに寝顔を見られるのは相当恥ずかしいと思います」
「いやいやいや。それはそうですけども。その気になってる女を前にしておいて手出ししないんですか? こんな明らかな据え膳無視って、それでも男ですか軟弱者!」
「うん、まあ、私ってヘタレだから」
「自慢げに言わないでください悲しくなりますから! そんなだからメイド長との関係が進まないんですよっ!」
「……ぅえっ、そうだよね……ごめんね……迷惑かけてるよね……」
「ああ、いえ……すみません……。失言でした……」
 思わずエキサイトしてしまったメイリンはハッと我に返ってうなだれた。それに同調するように過熱した頭の芯が冷え、落ち着きを取り戻す。
「でも、主さん……」
「でももヘチマもないの。ともかく、私はメイリンに手を出さないから。今回のことで何か礼をしたいと言うなら、他のものにして欲しい。例えばココアケーキを作ってくれるとか、そんなので」
「どうしてですか……私としたくないんですか? 私のこと、嫌いなんですか?」
「そうじゃない。さっき話した通り、メイリンに好意はあるし欲情もする。正直言って現在進行形で理性が限界寸前でヤバい」
「……じゃあ」
 ふ、とメイリンが纏う雰囲気が妖艶で桃色なものに変化する。
「私がここで一人で始めたら、襲ってきます……?」
「マジでそういうこと言わないでください。ホントに。お願いします。ほんっとに限界ギリギリなんだ、今」
 目線を合わせるのをひたすらに避け、工房主は身体ごと横を向いてメイリンを見ないようにした。明かりを間接照明に切り替えたことが逆にムードを盛り上げてしまって、しゅるり、とメイリンの衣擦れの音がするたびに理性の壁がガンガンと叩かれる。工房主の中の『いいじゃんこのままいっちゃえYO!』という無責任な圧力が恐ろしく強くなって、それを押し返すために全身全霊を賭す戦いが脳内で繰り広げられていた。
「ですから、私は別にいいと言ってるじゃないですか。誤解のないように言っておきますけど、お礼だからと誰にでもこんなことはしませんから。主さんだからです。私、主さんのこと好きですし、主さんなら構わないって……本気で思っているんですよ。演技じゃありません。本心です」
「そういうことを軽々しく言っちゃダメだって何度言えば……」
 と、毛布ダルマの内なる戦いなど知りもせず身を乗り出してくるメイリンを毛布の隙間から伸ばした手を振って近づかないように制して、工房主は反対の手で自分の頬をべしべしと何度も叩き、ゆるゆると頭を振った。
「いいかいメイリン。君がそこまで私を慕ってくれていることはすごく嬉しい。我が世の春が来た! と大声で叫んでみたくなる。でも、私は君に手を出さない」
「どうして……」
「理由は今のところ三つある。一つは、お礼のために身体を差し出すというその考え方がよろしくない。少なくともメイリン――だけじゃなく、工房メイドにはそういうことをしてもらいたくないし、させたくない。二つめは……言うまでもないかな」
「…………」
 メイリンが瞬時に思い浮かべた名前を見透かし、工房主は一つうなずいた。
「悲しむ顔は、見たくないからね」
「黙っていればいいじゃないですか。私も主さんも、言わなければバレません」
「いや、そういう次元の話じゃないんだよ、今は」
 言って工房主は遠くを見つめるように部屋の壁に目をやった。その表情は何かを恐れているような、呆れているような、ひどく読み取りづらいものだった。
 メイリンにはそれが弱気に見えて、少し腹が立った。思わず意地の悪いことを言ってやりたくなり、そのまま工房主にぶつけることにした。それが自身を傷つけるとわかっていても。
「悲しむ顔は見たくない、ですか。……じゃあ、私が悲しむのはいいんですか?」
「メイリンには悪いけど、優先順位はこっちが上だから」
「……ひどい人ですね」
「申し訳ない」
「……いいんです。わかってます。それでこそ私の主様です」
 答えが見えていて投げかけた言葉で意味無くダメージを受けたことに自嘲の笑みを浮かべ、メイリンはぽふっと寝転がった。なぜだか気分がスッキリして、先ほどまでのモヤモヤが消えている。
「それで、三つ目はなんですか?」
「んー……そいつは明日になればわかるよ。多分ね」
「……? そうですか」
 気にならないわけではないが、今は深く追求はしないでおこうと思い、それ以上何も言わなかった。どうやら工房主もなんとなくでしかわかっていなさそうで、明確な答えは期待できそうにないと感じたからだ。
(しかし……何やってるんだろうね、私は)
 メイリンは心の中でそう天井に問いかけてみたが、無論答えは降ってこなかった。
 工房主に礼をしたくて言い出したことで逆に工房主を困らせることになるなどと。それは本意ではないし、意地になって『分厚い壁』を何度も叩いても手が痛くなるだけで何も変わりはしない。執拗に叩けばひょっとしたら変わるかもしれないが、どちらにしても工房主を困らせる結果になるのは間違いない。ならばやらないほうがいい、やらなければ自分も相手も気分を悪くすることもないだろう。
「あーあ……主さんのヒミツの書庫にあった漫画の真似をして『カラダでお礼を』ってやってみたんですけど、やっぱりダメでしたね……」
「え? あ、いや、その、今なんと?」
「何でもありません。主さんのご命令どおり、先に休ませてもらいますね」
「いや、え? でも、うん、おやすみ」
「おやすみなさい」
 毛布ダルマのまま挙動不審になる工房主を小さく笑って、メイリンは布団を頭からかぶり、「いつか勝てるのかなぁ……」と呟いた。そこでふと、何をもって『勝った』ことになるんだろうと考え、答えに行き着くことができずに思考の堂々巡りに陥ってしまった。そのうち考えることが面倒くさくなって、メイリンは考えるのをやめた。加熱した頭に複雑な気持ちを抱えたまま、メイリンはサラサラで肌触りのいいシーツに包まれて、少しの悔しさを胸のうちに残して、眠った。


 メイリンが大人しくベッドで寝息を立て始めた頃、やれやれ、と一息ついて、工房主は湧きに湧いた劣情を押さえ込もうと必死に素数を数え始めた。まさかメイリンがこんな形で誘惑してくるなんて完全に予想外だったし、その威力が桁外れに強かったことも予想外だった。嘘でも冗談でもなく、あと一押しメイリンが踏み込んできたら――たとえば指先だけでも彼女に触れられていたら、その瞬間に理性は吹っ飛んで取り返しのつかないことになっていただろう。
 本当に紙一重で白刃の上を致命傷に至る寸前で歩ききった心境である。自分で自分を胴上げして褒めてやりたいと工房主は心底思っていた。
「…………」
 そうして自分を脳内パレードでひとしきりお祝いし終えると、冷静になった意識に『自分はメイリンに酷いことをしたのだろうか』という疑問が浮かぶ。
 メイリンなりに今回の旅行の埋め合わせの仕方を考え、工房主が隠し持つちょっとヒミツにしたい漫画を真似た。そうすれば工房主が喜ぶだろうと思って。
 しかしそれを工房主は頑なに否定した。理由はもちろんあるし、それを理解できないほどメイリンも頭の悪い子ではない。否定されても仕方ないとわかってくれたはずだ。
 だからと言って、メイリンの気持ちや覚悟まで否定していいわけはない。
 一体何が正解だったのだろうか。
 それは恐らく、一生答えの出ない問題なのだろう。
「……明日、ちゃんと謝ろう……」
 可愛らしい寝息を立てて眠るメイリンをいとおしそうに見つめてから、工房主はソファを離れて部屋を出た。


 コツコツ、という何かを叩く軽い音で目を覚ました工房主は、差し込む朝日のまぶしさに目を眇めた。遮光カーテンを閉め忘れたのだろうかと思い、すぐにここが工房の自室ではなく車の中だということを思い出した。昨夜はメイリンと同じ部屋で眠るにはちょっとばかり空気が盛り上がりすぎて、まともに眠れそうにないからと自分だけ車中泊することにしたのだった。おかげで腰と背中が痛いが、仕方のない代償である。
 コツコツ。
 と、再びノックするような音。そちらに振り向くと、朝イチに見るには最高の微笑みが窓の外にあった。
「おはようございます、主さん」
 優しく澄んだ声に、工房主の意識が完全に覚醒する。むくりと起き上がり、ロックを外してドアを開けた。
「おはよう」
「お部屋にいらっしゃらないので、ひょっとしたらと思いましたが……お身体は大丈夫ですか? 痛いところなどは」
「あー、うん。多分問題ない」
 コキコキと肩を鳴らして、首をぐるりと一回転。凝り固まった筋肉が軋んだが、目覚めにはちょうど良い鈍痛だった。
「そういやアーチェ、メイリンは?」
「まだお休みのようです」
「そっか……」
 車を降りて、泊まっている部屋の窓を見上げ、工房主はふむと息をついた。
「疲れてるだろうからゆっくり寝かせてあげて」
「わかりました。……ところで主さん」
「ん?」
 窓から隣に立つ工房メイド長――今は工房メイド服ではなく私服だが――に目を向ける。
「驚かないんですね。私がここにいることに」
「まぁ、予想してたからね」
 へへっ、と軽く笑って、駐車場に停まっているもう一台の車を見た。昨夕に見た白いランエボである。
「見覚えのある和泉ナンバーの車が停まってるのと、受付の女の人の反応を見りゃ、ひょっとしてと思うよ。一昨日の夜に出発したとは言え、ずっと一般道を走って、途中で休憩を何度も挟みつつここまで来た私たちよりも、その翌朝から高速道路を飛ばしてきただろう君たちのほうが先に着いていてもおかしくないし。ローナなら私たちの行き先を割り出すことも簡単だったろうし、宿泊予約をねじ込むことだって簡単だったろう。こっちにメイリンがいるならアレッサが追ってこないわけがないのも明白だし。アレッサのドラテクなら私に追いつくことなんて簡単だったろうね」
「受付の人の反応というのは?」
「メイリンが宿泊名簿に住所を書いたとき、受付の人が不思議そうな顔をしたんだよ。それで、もし君たちが先に到着して、宿泊名簿に工房の住所を書いていたとしたら、同じ県外住所の客が二組、別々にやってきたことになるから妙に思ってしまったんじゃないかという仮説が立つ」
 言って工房主はドヤ顔をする。その鋭い推理にヴィアーチェは素直に感心しながら、昨日名簿に「工房の住所でいいのか?」とクローディアが記入していたのを思い出していた。
「これ、アレッサの知り合いのクルマだろ?」
「はい。無理を言ってお借りしてきたものです」
「やれやれ、そちらにもお礼をしなきゃならないな……」
 ひょいと肩をすくめ、工房主はため息をついた。
「それで、アレッサたちはどうしてる?」
「アレッサさんがメイリンさんの寝込みを襲わないようにクローディアさんが睨みを効かせています。ローナさんはまだ就寝中でした」
「今……七時過ぎか。八時になったらみんなで朝食にしよう。この件の詳しい事情の説明はその後でいいかな?」
「わかりました。ですが、個人的に一つだけ、今ここで質問させてください」
 先ほどまでとは少し様子の違う声音のヴィアーチェに、工房主は背筋が伸びるような緊張感を覚えた。真っ直ぐな紅い瞳が工房主を見つめ、桜色の薄い唇がゆっくりと開く。
「どうして昨晩、メイリンさんを拒否なさったのですか」
「んー……隣に君たちがいるんじゃないかって思ったこと、これがメイリンに話した『三つ目の理由』だけど、それより一番はアーチェが悲しむからだね」
「どうして私が」
「いや、だって、アーチェは私のことが好きだから、私が他の子とそういうことしたら嫌だって思うんじゃないかなー、とか超思い上がったことを思ったりね?」
「っ……他人の気持ちを勝手に想像しないでください。私とあなたは別に夫婦でも恋人同士でもありませんし、あなたが他の誰と何をしようと私は口出ししません。私はそんなに偏狭な心の持ち主ではありません」
 ふいっと顔を逸らして、ヴィアーチェはうつむいて黙ってしまった。怒っているような素振りではあったが、耳が真っ赤で頭から蒸気が出ているので死ぬほど赤面しているのは明白だった。その様子に工房主の嗜虐心が揺れる。
「え? じゃあメイリンとしちゃってもいいの?」
「……私の答えがわかっていながらそんなことを言うんですか。主さんは意地悪です」
「アーチェが先に意地悪な質問をしたからだよ。メイリンを拒否した理由なんて改めて訊くまでもないのが自分でわかっててさ。お互い様だと思わないかね」
「ローナさんに主さんたちの居場所を探していただくのに、ちょっとだけ出費したんです。その分くらいは意地悪してもいいじゃないですか」
「あー……魔王と取引をね……。そりゃ仕方ない、心ゆくまで意地悪したまえ」
 工房主がおちゃらけて言うと、仏頂面をしていたヴィアーチェはクスクスと笑い、にじみ出た目じりの涙を指で拭いた。
 と、その時。
「そこでラブコメ真っ最中のお二人に朝食の準備が整ったとのお知らせがあるのですがよろしいか」
 二階からアレッサの声が降ってきた。何事、と振り仰ぐと、窓から半身を乗り出したアレッサが不機嫌な顔をしながら手を振っていた。メイリンを起こしに行くのをクローディアに止められて不貞腐れているらしい。
「わかった、今行くよ」
 車のドアロックをかけて、工房主はまだ少し眠り足りない目をこすった。
「あー、そうだ。アーチェに一つ訊いておきたいんだけど」
「はい」
「なんで私がメイリンを拒否したことを知ってるのさ?」
「っ!」
 はっとしたような顔で息を呑み、ヴィアーチェは慌てて視線を地面に落とした。少しばかり冷静さを欠いたことをしてしまったと今になって気がつく。
「い、いえ、私は……」
「ローナが盗聴器仕掛けてただろうから、昨晩の私たちの会話は筒抜けだってのはわかってるんだ。だから、しちゃっても黙ってれば大丈夫というメイリンの言葉を否定したわけなんだけど。でもアーチェもそれを聞いてたの?」
「……それは、まあ……。メイリンさんが本気で主さんに迫ったら、私じゃ勝てそうにありませんし……気が気じゃなかったといいましょうか……」
 でなければローナの予想を超える金額提示をしてまで行方を捜そうとはしていない。メイリンが残した冗談のような手紙とローナが口にした「駆け落ち」という言葉がなければ、こうもヴィアーチェの心が揺さぶられることはなかっただろう。
 つまるところ――工房主を信じていても、もしかしたらと思ってしまう自分の心が抑えられなかったのだ。
「いくら言い訳しても、盗み聞きは正当化はできませんね。申し訳ありませんでした」
「ああ、いや、別に謝って欲しいわけじゃないんだ。今回は私の認識の甘さが招いたことで、むしろ不安にさせた私が悪いわけで」
「いえ、私が……」
「どっちでもいいし痴話喧嘩は帰ってからにしてさっさと食堂に来てもらえませんかね! あたしゃハラが減ってンですよ!」
 と、苛立ちを隠そうともせずに今度は玄関からがなりたてるアレッサの大声に遮られ、工房主とヴィアーチェは続く言葉を出せなくなった。
「……オーライ、わかったから大声はやめてくれアレッサ。他の客に迷惑だ」
「客ゥ? あたしらしかいねェよ」
「そうか。じゃ、私たちの独占ってわけか。メイリンが喜ぶ」
「あぁ? どういうことだよ?」
「じきにわかるさ」
「?」
 不可解極まる、と言いたげに眉根を寄せるアレッサだったが、それならメイリンに聞けばいいじゃねェかと表情を明るくしてダッシュで引き返していった。メイリンはまだ夢の中のはずで、それをいいことにルパンダイブでもするつもりなのかと工房主は思った。
「……クローディアに止められるんじゃないかなぁ」
「メイリンさんの部屋には鍵がかけてあります。問題ありません」
 とヴィアーチェは手の中にある鍵を胸の前で揺らして見せた。
「さすがアーチェ。抜かりがないね」
「工房メイド長たるもの、このくらいできなくてどうしますか」
 建物中に響き渡る「ロックされてるぅぅぅぅっ!」というアレッサの悲鳴を聞いて、ヴィアーチェはふふっと笑った。


「うまッ! 何これめっちゃ美味いんだけどッ!」
 メイリンのベッドにルパンダイブできなかったせいで最高に不機嫌だったアレッサだったが、『それ』を一口食べた瞬間に全てのネガティブな感情を吹き飛ばした。
「でしょう? ここのバームクーヘンは全然知られていないけれど超絶品なんです。それも限定品ですから、滅多に食べられないんですよ。美味しいでしょう? アレッサさん」
「これはマジでスゲェな、メイ。こんなに美味いバームクーヘンは初めてだ……」
 いたく気に入ったのか、息をつく暇もないほどにもふもしゃとクオーターカット四つを平らげ、アレッサは感嘆のため息をついた。
「本当ですね。ここまでのものはちょっと他にないですね……」
「うむ」
 ローナとクローディアも目を丸くしてその美味に酔いしれる。
「そうですね。本場と言われる欧州のお店で食べたどれよりも、ここのものが勝っている気がします」
「おお、本場を知るヴィアーチェにそこまで言わせるとは……本物だな、これは。メイリンのファインプレイだ」
「えへへ」
 工房主の賛辞を照れくさそうに受けて、メイリンはバームクーヘンを頬張った。
 この旅の目的――それがこの『バームクーヘン』である。
 牧場を経営する傍らで菓子作りを学んだオーナーが研鑽に研鑽を重ねて作り出したのが、ただいま工房メイドに絶賛されているバームクーヘンだった。
 オーナーは試行錯誤の末に客に満足してもらえる出来になったということでこれを売り出そうと考え、売価を計算し――頭を抱えた。
 こだわり抜いたために原材料費が天井知らずに跳ね上がり、バームクーヘンの価格としては常識はずれも甚だしくなってしまった。有名パティスリーならブランドネームで許される高価格も、無名では通用しない。
 そこでオーナーは、まず名前と味を世間に浸透させることを考えた。牧場に併設された宿泊施設に男女一組でダブルの部屋に一泊すれば、バームクーヘンを無料でプレゼントする、というものである。
 もちろん最初は全く反響がなかった。たかがバームクーヘンのために、こんな何もないド田舎の牧場にやってくる物好きはそうそういないし、なにより宿泊料金が高い。高額になるバームクーヘンのお代が加味されているので仕方ないが、そうと知らない者にしてみれば単に観光地でもないのに料金が高いド田舎の宿にすぎない。
 それでも世の中には偶然というものがあるし、一定数の物好きがいるもので、一組、二組は客がやってくる。彼らは好奇心か何かのネタになればいいかといった軽い気持ちで宿泊し、バームクーヘンを食べてその味に驚愕する。それがSNSの片隅に流れて――それがメイリンのアンテナに引っかかることになった。
 甘いものに対する嗅覚が鋭いメイリンは、あと数日もすればこの牧場のバームクーヘンが世に知られ、手に入らなくなると直感で悟った。ゆえに、夜中に工房主を訪ねて無理矢理引っ張り出して駆けつけたというわけである。
「男女一組、という条件がありましたので……」
 事情を説明して、メイリンは申し訳なさそうに工房主を見た。すでに事情を聞いていた工房主は特に表情を動かすこともなく、恵比須顔で戦利品を頬張っている。
 反応したのはアレッサだった。
「だからって、メイ。マスターを連れて行くなんて何考えてんだ。オトコなんてみんな狼だぞ」
「メイリンの寝込みを襲おうとしていた者が言うことか」
「何言ってんだディア。メイが寝てたらルパンダイブするのが礼儀ってもんだろうが」
「……そうか」
 言っても無駄だと悟ったか、クローディアはそれ以上何も言わずに紅茶を一口飲んだ。
「主さんなら大丈夫だと思ってますから。それに主さんだったら別に……構いませんし」
「よし、マスター。帰ったらヘッドショットな?」
「とんだとばっちりだ!」
 蚊帳の外に放り出されたのにその中で生殺与奪の話が進んでいることに抗議の声を上げる工房主。いつものようにヴィアーチェがトリガーハッピーを諌めようとして――
「やめてくださいアレッサさん。私のわがままに付き合わせただけですから、主さんに何も悪いところはありません。もしそれでも主さんを撃つとおっしゃるなら、私が銃口の前に立って楯になります」
 それよりも早くメイリンが反抗した。アレッサはぽかんとした顔でメイリンを見つめ、しばし硬直し、大粒の涙をぼろぼろとこぼし始めた。
「…………。ディアぁぁぁぁ……メイが反抗期だぁぁぁ……」
「誰しもが大人になるために通る道だ」
「ぅあああああ…………っ」
 と恥も外聞も無く泣き喚くアレッサを、クローディアは優しく抱き止めた。「何この寸劇?」と他の四人が思った瞬間、ぴたりとアレッサの声が止む。そして。
「というギャグはさておき」
 平然とした表情でメイリンに向き合い、薄蒼い瞳が覗く切れ長の目を眇めて微笑む。
「安心しなよ、撃ちゃしないから。メイの嫌がることをあたしがするわけないだろ」
「私が嫌がってもおっぱい揉んだり私の大切なところをいじったりするじゃないですか……」
「それはそれ。これはこれ」
「……アレッサさんなんて嫌いです」
「ぅぐあっ!」
 ぷい、とそっぽ向いて頬を膨らませて怒るメイリンの一言に、今度は本気で泣き出すアレッサ。やはりクローディアが慰めるが、今度のダメージは相当深いらしく涙が止まらない。
 メイリンは悲しみに暮れる百合魔人を無視し、席を立って工房主に向き合った。そして神妙な顔つきで深々と頭を下げる。
「本当にすみませんでした、主さん。私のわがままに付き合わせてしまい、大変なご迷惑をお掛けしました。どんな罰でも甘んじて受けます」
「いやいや、美味しいバームクーヘンを食べられたから、この件は不問だよ。むしろ私がメイリンに謝らなきゃいけないくらいだ」
「主さんが私に……? どうしてですか」
「昨日の夜のことだよ。あんなことを言い出すのに相当な覚悟を決めてたろうに、一方的にメイリンの気持ちも考えずに拒否してしまったのはさすがにいただけないと自省しきりなんだ。メイリンの覚悟を受け取ることはできないにしても、もう少しやりようがあったんじゃないかって。無理を言うようだけど、無神経な私を許してくれると嬉しい」
「そんな、私の考えが浅はかだっただけです。主さんを許すも何も、逆です。私が主さんに許されるかどうかですから」
「じゃあ、許します。だからこっちも許して?」
「…………。はい。ありがとうございます」
 あまりにも軽い工房主の言葉に肩肘を張っている自分が滑稽に見え、メイリンは湧き上がるおかしさに思わず笑いが止まらなくなった。
 それを見ていた工房主はバームクーヘンを頬張り、もっしゃもっしゃと咀嚼してゴクリと飲み込む。
「やっぱりメイリンは笑ってるほうがいいね。かわいい」
「全面的に同意だナ。超かわいい」
「アレッサ……もう復活したのか……」
「メイの笑顔はどんな薬よりも効くんだよ。知ってンだろ」
 失意のどん底に落ちていったはずの百合魔人が、いつの間にか工房主の隣でバームクーヘンを頬張りながらにやけた顔をメイリンに向けていた。現金なものである。
 メイリン以外は工房メイド服を着ていないものの、まるで工房にいるような空気を感じていた工房主。しかしここは、自分を含め彼女らのいるべき場所ではない。
「さてみんな。メイリンの目的は果たしたし、帰ろうか。工房で仕事が待ってる」
『イエス、マイマスター』
 工房主の言葉に、工房メイドは全員頭を垂れて声を合わせた。


「……そういえば」
 帰り支度をし、チェックアウトも済ませて車に乗り込もうとしたところで、メイリンが思い出したように言った。ランエボのトランクにメイリンの荷物(他に宿泊客がいないからと半額で譲ってもらったお持ち帰り用のバームクーヘンも当然のように入っている)を詰め込んでいたアレッサが怪訝そうな顔で黒髪メガネのメイド姿に目をやる。
「どうした、メイ? 何か問題か?」
「いえ、問題というか、気になることが……」
「何だ? 言ってみ?」
「ええ、その……」
 心底不可解だと言わんばかりに眉根を寄せて、メイリンは首をかしげた。
 そして。
「なんでアレッサさんたちがここにいるんですか?」
『遅ッ! その反応遅ッ!』
 思わず声を揃えて、メイリンを除く全員がツッコミを入れた。


 こんな騒動があっても、相変わらずメイリンはこんな感じの娘である。




        完

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