2014/05/17

短編小説 『彼女の居ない工房』 前編

 よく知った場所、よく知った人。
 それが急に変わってしまったらどうなるのか。
 見た目は全く同じで、しかし中身は全然違っていて――


 そんな感じのお話です。


【注意】
 この小説は創作です。登場する人物・名称等は現実のものと一切関係ありません。



 

 頭が重い――
 それが初めに感じたことだった。
 そしてその重さはやがて鈍痛となり、夢現だった意識に現実味を持った衝撃を与え始める。ぬるま湯に浸かっているような、気だるく心地良い感覚から引きはがされて行き――
「…………」
 目が覚めた。その途端に走る右肩の痛みに思わず呻き声を上げてしまった。
「あ……! 気が付かれましたか? ご気分は悪くないですか?」
 と、ベッドの脇にいたメイド服の若い女が、喜び半分泣き半分の表情で私の顔を覗き込んできた。艶やかな黒髪に同じ色の碁石のような丸い瞳、縁なしのメガネをかけたメイドだ。彼女は急き込むように質問をさらに繰り出してくる。まるで長い時間を眠って過ごした姫が目を覚ましたような騒ぎっぷりだ。まぁ、私は姫どころか何の変哲もない三十路のオッサンなのだが。
「主様、私のこと、おわかりになられますか?」
 と、メイドは言った。さすがにこの質問の意味は理解しかね、眉根を寄せてしまったが、とりあえずヒネリもなにもなく答えることにした。
「メイリン、だよね? 工房メイドの。間違ってる?」
「いいえ、その通りです」
 メイリンはほっと安堵のため息をつきながらそう言った。どうやらネタでもなんでもなく、心底安心したといった様相だ。なんだろう、すごく違和感がある。
 私は『南村ともみ』で、ここは『八重崎工房』。そして彼女は工房で働くメイドのメイリン。他にあと四人のメイドがいて、私は彼女らの雇い主で、正直彼女らにおんぶにだっこという情けない主だ。
 これが私のとっての『普通』なのだが……何かがおかしい。
「どこか、お身体に痛いところなどはございませんか?」
「ん……ちょっと右肩が痛いかな。なぜかわからないけど」
 それ以前に、なぜ私がベッドに横たわっているのかがわからない。最新の記憶では、書庫の整理をしていて、ついつい手に取った小説に没頭してしまっていたはずなんだが……。
「覚えていらっしゃらないのですか? 主様は階段から転げ落ちたのですよ」
「……は?」
 意外な一言に、思わず思考停止してしまった。
 階段から落ちた? 私が?
 ……覚えが無い。
「え? 階段?」
「私はその場面を見ていないのですが、主様が階段の下で倒れていらしたと聞きました。それで、アレッサが主様をここへお運びし、お医者様に診ていただいたのです。幸い、肩の打撲だけで大きなけがもなく、気を失っているだけだろうということでしたので、お目覚めになられるまで私がお傍に控えておりました」
「はあ、そうなんだ」
 なんだろう、本当に違和感だらけだ。わけがわからない。
「もしお気分が悪いようでしたら、病院で検査を受けるようにとお医者様には言われています。頭を打っている可能性もありますし……」
「多分、大丈夫。今のところ意識ははっきりしてるし、気分も悪くない」
 ただ、なんとなく違和感があってピンとこないだけだ。
「そうですか。それならよろしいのですが、少しでも体調がおかしいと感じたらお申し付けください」
「うん、そうする」
「では、私はメイド長に主様がお目覚めになられたことを知らせて参りますので、主様はもう少しお休みください。失礼します」
 と、メイリンは折り目正しいお辞儀をして、部屋を出て行った。
「…………」
 ……そうか、違和感の一つはこれか。
 メイリンの態度があまりにも丁寧すぎる。彼女は私のことを『主様』などと呼んだりしないし、言葉遣いももう少し柔らかかったはずだ。それに同僚とは言え年上の先輩メイドであるアレッサを敬称略で呼んだことも、メイリンらしからぬ行動だ。
 何かのネタなのだろうか。元演劇部所属のメイリンならこの程度の芝居は朝飯前だろうが、そうする意味はどこにあるのか。
 一体、何が起きている?
「失礼します」
 ノックの音が四度鳴り、声と共にドアが開いた。そちらに目をやると、ミルクティー色をした長い前髪で顔を半ばまで隠した三つ編みのメイドが私に一礼し、歩み寄ってきた。その手には銀盆に乗ったティーポットがあった。ささやかに赤いバラの花が描かれた白磁のポットで、メイリンが骨董屋で見つけて買ってきたものだ。
「やあ、ローナ」
 声をかけると、真一文字だった彼女の口が笑みの形になった。前髪のせいで表情はわからないが、メイリンと同様にほっとしているようだった。
「お目覚めになられたと聞き、一安心致しました。ご気分はいかがですか?」
「大丈夫、大したことはなさそうだよ」
「それはなによりでございます。お茶をお持ちしましたが、いかがなさいますか?」
「うん、貰うよ」
「かしこまりました」
 言ってローナは銀盆をベッド脇のテーブルに置き、カップに紅茶を注ぎ始めた。
「……?」
 慣れた手つきでお茶を入れるローナを何となく見ていて、ふと気が付いた。
 彼女のメイド服が薄紫色ではなく、メイド長を表す藤色だったのだ。それはローナが着るメイド服ではないはずだが……。
「ローナ。どうしてそのメイド服を着てるのさ?」
「はい? 何か不都合がございますか」
 ティーカップを差し出しながら、ローナは不思議そうに首を傾げて言った。芝居ではなく本当にわからないといった雰囲気だ。
「それはメイド長の制服だよね。どうしてローナが?」
「……? 何かのお戯れでしょうか。私がメイド長ですので、この服を着るのが当然ではありませんか。そもそも、主様が私を工房メイド長に御指名くださったのでしょう」
「……え?」
 一体何のことだろう。私はローナをメイド長に指名した覚えなど無い。
 ローナも私の言うことがわからずに困惑しているようだった。
「もしや、頭を打った影響で混乱していらっしゃるのでは……」
「いや、意識ははっきりしてるけど。ローナがメイド長? ヴィアーチェじゃなくて?」
「ヴィアーチェ? そのようなメイドは工房にはおりませんが」
「な……っ」
 ヴィアーチェがいない? 工房の実質オーナーがいないって?
 そんなバカな話があるか。
「いないはずないだろう。ヴィアーチェ=シルヴァライネン、この工房の実質オーナーだよ。銀髪ポニーテールで瞳が赤くて真面目で堅物で、君たちの上司じゃないか」
「……? 申し訳ございませんが、私はそのような方は存じ上げません。それにこの工房の所有者は主様です。この工房を設立したとき、主様がある資産家の別荘だったこの建物をご購入なさったのです」
「そう、その資産家の孫娘がヴィアーチェで……」
「私の知る限り、その資産家は昨年不慮の事故で亡くなられ、身寄りはおられないとのことですが」
「…………」
 淡々とした口調でローナはそう言った。
 ローナが嘘を言っている様子はない。もともと彼女は大小に関わらずリスクを伴うからという理由で絶対に嘘を言わない。言葉巧みに誤解を招きやすい言い回しで語り、聞く者にわざと真実とは違う認識を与えることはあるが、発言全てが嘘だったということなどは一切無いのだ。
「その資産家というのは、八重崎義国というじーさま?」
「いいえ、違います。主様がおっしゃる人物が八重崎グループの会長のことでしたら、健康そのものと言った様子で今も活動なさっておられます。しかしあの方は我々とはなんら関わりがありません」
「会長の娘や孫娘について何か知ってる?」
「私もよくは存じ上げませんが、義国様のご息女、八重崎小夜子様は海外で音楽家として活躍なさっておられると聞き及んでおります。しかし小夜子様がご結婚なさったという話は存じ上げません。義国様には現在孫娘はいらっしゃらないはずです」
「そう……か」
 八重崎家は存在するが関連は無く、ヴィアーチェは存在していない、と。
 ということは――
「この工房の屋号は……」
「『南村工房』でございますが。……まだ、意識が混濁していらっしゃるのでは……」
「いや、大丈夫」
 と返しても、多分ローナはそれを信じていないだろう。
 私自身が良く見知った場所にいて、見知った人がいるのに、それらが私の知るものとはどこか違うのだ。それに戸惑う私を見るローナもまた、奇妙に思っていることだろう。
 とりあえずローナが入れてくれた紅茶を少し飲み、気持ちを落ち着かせる。
「体調が優れないようでしたら、主様の午後の仕事スケジュールはキャンセルするように取り計らいますが……」
「仕事? 何があったっけ」
「はい。午後二時から金本秋絵様と商談、四時から府立美術館の視察、七時から火撫夏海様、清水冬花様との会食が予定されています」
「…………は?」
 何なのだろう。本当にわけがわからない。
 引きこもりの見本のような私が商談やら視察やら会食だって? 私はどんな仕事をしているんだ?
 しかも相手は高校生とか。
「秋絵さんって何か起業したんだ? 高校生なのに」
「はい? 金本様は国立の有名大学をご卒業後、大手企業に就職なさった方ですが。高校生?」
「……い、いや、なんでもない。さっきのは忘れてくれ」
 ダメだ。私の知っている名前なのに経歴がまったく違っている。この分だと他の三人もすでに社会人なのだろう。余計なことは言わない方がよさそうだ。
 とにかく。
 現状を理解する必要がある。少し独りで考える時間を取るべきだろう。
「すまないローナ。午後の予定はキャンセルしてくれないか。先方には私の体調不良ということで、後日謝罪とお詫びをすると伝えておいて」
「はい」
「私はもう少し休ませてもらうよ」
「かしこまりました」
 飲みかけのカップを引き取り、ローナは恭しくお辞儀をした後、部屋を出て行った。


 まず現状確認から。
 私は南村ともみで、工房の主だ。それは工房メイドからも認識されている。
 ローナ、メイリンは私の知っている容姿をしていた。姿を見ていないが、アレッサも工房に居るようだ。名前の出ていないクローディアの存在は不明。ヴィアーチェはローナの話から、完全に周囲――どころか存在そのものがないらしい。彼女の母が未婚である以上、その娘であるヴィアーチェが存在するはずがない。
 ヴィアーチェは、いない。
「…………」
 そのことがこの上なく衝撃的だがそれを事実として受け止め、今現在自分が一体どういう環境にいるのかを知っておくべきだろう。
 幸い、私が今いる寝室は記憶にある通りの配置になっていて、デスクにパソコンもある。それを調べれば何か手掛かりがあるはずだ。
 ベッドを降りてデスクに着き、見慣れた筐体の電源ボタンを押す。何の問題も無くOSが立ち上がり、ログインパスワード入力画面が表示された。記憶を呼び起こす必要もなく指が勝手にキーボードを叩き、入力を終えるとエンターキーを押した。パスワードが違っていれば何もできないが――
「よし、大丈夫だ」
 ベレッタの写真を壁紙にしたデスクトップが表示され、ほっとため息が漏れた。ランチャやインフォメーションソフトも導入されている。
 保存されているファイルの中身は、おおよそ記憶にあるものと同じだ。十八禁なファイルもきちんとフォルダハイドソフトで隠されており、その解除パスワードも私が設定したもので通った。少なくともまったく他人のパソコンではないということだ。
 つまり、仮に私の記憶にないファイルがあれば、それが手掛かりになると考えていい。
 そう結論付け、他人のファイルを覗き見しているような罪悪感を覚えつつ、それらを調べて行った。
「……どうやら美術関連の仕事をしているみたいだな」
 と、自分のことなのに他人事のような感想を持った。
 私は知り合いの雑誌記者が刊行しているマイナーな誌面に挿絵を描いたり、小説を掲載してもらったりして報酬をいただいている。そして時折舞い込む八重崎家からの依頼も受け、工房を維持している。
 しかしそういった仕事は一切なく、ここでは美術商のような仕事をしているらしい。それならば商談がどうの美術館の視察がどうのというスケジュールに納得がいく。
 納得は行くが……実感は全くない。当たり前だ。覚えが無いのだから。
 なんだろう、私だけが別の世界に紛れ込んだみたいな感じだ……。やっぱり階段から落ちて記憶が変になっているんだろうか?
「…………」
 ふと思いついて、デスクトップのマウスカーソルを右下端に置いた。時計が表示されているが、マウスカーソルを重ねると日付がポップアップされる。
「まぁ、そうだろうとは思ったけど」
 記憶通りの日付だった。ただ、時間は午前十一時少し前で、私が書庫にいたのは昼過ぎだ。そこは食い違っている。
「主様、失礼します」
 と、デスクで状況整理をしていると、アレッサの声がした。どうぞ、と返し、ドアが開いて金髪サイドテールのトリガーハッピーメイドが入ってくるのを待つ。果たして、アレッサも私の知っている容姿をしていた。切れ長の蒼い瞳、スラリとした長身、収穫前の稲穂のような鮮やかな金髪。
 見た目は何も変わりないが……言葉遣いと態度がまるで別人だった。アレッサにしおらしい態度で敬語を使われるなんて何年ぶりだろう。というか初めてではなかろうか。
「どうかしたの、アレッサ?」
「はい。奥様がお戻りになられましたので、お知らせに参りました」
「…………は?」
 今、なんて言った? 聞き間違いか?
「奥様?」
「はい。主様が倒れられたとお知らせしましたので、大急ぎでお戻りに」
「あ、ああ。そう。奥様、ね」
 一体何度驚けばいいのか。
 いつの間に私は結婚していたのだろう。本当にわけがわからない。
 ……いや、その『奥様』がヴィアーチェって可能性は?
 ローナは「工房メイドにヴィアーチェという者はいない」と言った。もし私の妻であればメイドを辞めているので、そういうことになるのかもしれない。ローナは紛らわしい言い回しを好むし、そういう解釈もあるのではないだろうか。
 ならば、私を心配したヴィアーチェが今にそのドアをくぐってやってくるに違いない。
「主殿……!」
 そう思っていると、良く見知った顔が息せき切って部屋に駆け込んできた。
 ただし、その人物は予想とは違っていたが。
「……クローディア……?」
 アッシュブラウンのセミロングの髪、青い瞳、長身で姿勢のいい立ち姿。間違いなく工房メイドのクローディアだ。しかしメイド服は着ておらず、仕立てのいいカジュアルスーツに身を包んでいて、いつも仮面のような無表情だった顔には心配そうな表情を浮かべている。
「ローナから連絡を受けて大急ぎで戻ってきました。お身体は大丈夫ですか?」
「ああ、うん。今のところ大したことはないよ、クローディア」
「え……?」
 私の返事に、クローディアは顔を強張らせて固まってしまった。そしてアレッサを振り返り、どういうことだ、と問い詰めるような視線を向けた。
「その、転落の際に頭を打ったせいかと……」
 遠慮気味にアレッサが答えると、クローディアは、ああ……と悲しそうな声をもらした。なんだ、何か拙いことを言ったのだろうか。
「ど、どうしたの?」
「お忘れなのですか。婚姻の際、私はあなたをお守りする守護剣士『クローディア』の名を返上し、『五十鈴川紗織』としてあなたの妻となったのです。もう称号で私を呼ぶことはないとおっしゃってくださったのに……」
「あ、いや、ごめん。まだ頭がすっきりしていなくて……」
 わけもわからないまま思わずそう謝ってしまった。
 クローディアが私の妻というだけでも驚きなのに、鉄仮面とアレッサに揶揄されていたその表情が感情豊かに変化しているのが五六八(ごろはち。工房で飼っている柴犬)も月までブッ飛ぶ衝撃だった。……そういえば五六八もいるのだろうか。後で見に行こう。
「主殿、病院で精密検査をお受けください。私も付き添います」
「いやいやいや、大丈夫だから。ごめん、心配かけて」
「……はい」
 クローディアが本気で私を気遣ってくれているのがわかる。何が本当で何が嘘なのかわからないが、それだけは間違いない。
 それが、一層私を混乱させているというのも事実だが。
 彼女が私の妻だって……?


 クローディアが私の許嫁だった、という話を以前アレッサから聞いたことがある。
 彼女の祖父(ドイツ人だと本人から聞いた)が、先の大戦中に私の祖父から受けた恩を返すために、娘を嫁がせようとしたのだそうだ。しかし私の祖父には男児が生まれなかったため、その予定は孫の代に移った。そして彼女の祖父に生まれた孫娘と、私の祖父に生まれた孫――クローディアと私は許嫁となった。
 クローディアは幼い頃からまだ見ぬ夫のために家事能力を鍛え、武術を鍛え、尽くす術を身に着けた。それが当たり前だと言い聞かされ、彼女は育った。
 そして彼女は成人し、連絡が取れなくなっていた私の祖父を探し、許嫁である私を探し当てた。
 しかし、その話を私は知らなかった。私に許嫁がいることを話す前に、祖父が亡くなってしまったからだ。私の両親すら、そんな話を聞いたことは無かったのだ。
 その辺りの事情を察したクローディアは、突然現れた見ず知らずの人間に「あなたと私は許嫁です。結婚してください」などと言われて信用されるはずもないと考え、「祖父が受けた恩を返すため」という理由で機会が訪れるまで工房で働くことにした。同時に、夫として尽くすに値する人物かどうかを判断する材料を集めた。
 そして月日は過ぎて、彼女は結論を出した。
 許嫁であることは黙っていよう、と。
 決して夫に相応しくないと判断したのではなく、自分ではダメだと思ったからだ。
 その理由は本人の口から語られていない。この話を私にしてくれたアレッサも知らないのだそうだ。
 だが――ここではクローディアは約束を守り、私の妻になっていた。
 そして今、ベッドで休む私をじっと見つめている。
「…………」
 私が階段から落ちて意味不明なことを言うようになったと工房メイドたちから聞かされ、不安に押しつぶされそうな顔をしている。無表情で何事にも動じないクローディアがそんな顔をするなんて、新鮮であり意外であり、どうにも慣れなくて困惑する。
「そう言えば、どこかに出掛けていたんだよね。そっちはいいの?」
 部屋に二人きりで、互いに黙したまましばらく経っていたが、私はそれに耐えきれなくなってそう言った。
 クローディアはかるく頭を振り、
「主殿の大事の他に何が重要ですか。仕事などあなたの無事を確かめてからで良いのです」
 とキッパリ言い切った。随分と愛されてるんだな、私。……と言っても、そうなった理由も原因もサッパリなのだが。そういう風に想ってもらえることはすごく嬉しいが、なんとなく他人に向けられる愛情を横取りしているみたいで気分が良くない。
 それにしても、クローディアの仕事とは何なのだろうか。結婚して剣を置いたと言っていたが、では彼女は何をしているのだろう。趣味と実益を兼ねて彼女がしていた畑仕事……をしている格好には見えない。
 ……訊いてみるか。情報収集にもなるし。
「クローディア、仕事の調子はどう?」
「…………主殿」
「ああ、ごめん。さ、紗織?」
 そうだ。クローディアという呼び名は禁句だった。しかし本名で呼ぶのはすごく……恥ずかしい。呼ばれた当人はぱっと表情を明るくして頬を紅潮させるほど嬉しそうにしているが、こちらは別の意味で頬が赤くなる。
「順調です。桜木さんの尽力のお蔭で私が道場に入り浸らずとも良くなりましたし」
「そう。それはよかった」
 わかったふりをしてうなずく。
 道場というのは多分、クローディアの実家の剣道場のことだろう。私の知る彼女は休日に剣道教室を開いていた。ここでもそれは継続されているらしい。
 しかし、その道場に春菜さんがいるのか……剣を持った春菜さんってどんな感じなのだろう。少し気になる。
 クローディアはちらりと時計を見て、椅子から立ち上がった。
「……そろそろ昼食を準備する時間です。私はそちらへ行きますが、お一人で大丈夫ですか?」
「あ、うん。大丈夫」
「では、準備ができたらこちらに運ばせます。それまでお待ちください」
「わかった。ゆっくりでいいよ」
 そう言うと、クローディアは一礼してから部屋を出て行った。
「…………」
 私一人がぽつんと残った室内を改めて見回してみるが、本当に知っている景色と何も変わらない。なのに、何もかもが違っているように感じる。
 そう、漫画やアニメによくある『異世界』に飛び込んだかのようだ。突然見たことも聞いたことも無い世界に放り込まれ、その差異に苛まれるというストーリーはライトノベルの王道とも言える展開だ。もっとも、現状はまったくの異世界ではなく、私が知っている世界が少しだけ違っているというものだ。むしろこちらのほうが対処しづらい気がする。
 しかし……どうしてこんなことになったのだろう。
 いや、多分……と言うか間違いなく、ここの工房メイドたちが言っている『階段から落ちた』のが原因だろう。
 まったくもってバカげた推測で有り得ないが、転落の拍子に異世界に飛ばされたのだと考えると、きま○れオレ○ジロードじゃあるまいしと思いつつも嫌になるほどしっくりくる。
 パラレルワールドなんて今日日使い古されたネタだが、実際に体験してみるとそれはそれで驚きの連続だ。何と言ってもこの私がクローディアと結婚しているなんて。元の世界では天地がひっくり返っても起こりえない出来事である。
「けど……今はこれが現実なんだよな……」
 ベッドを降り、電源が入りっぱなしのパソコンで私ではない『私』の仕事に関するファイルを開く。身に覚えのない仕事の記録が並んでおり、そのどれもこれもが『私ならそうするだろう』という動きを示していた。私であって私でない誰かの仕事。
 ……なんだか気分が悪くなってきた。
「そうだ……」
 何とはなしに、ネットで『ヴィアーチェ』を検索してみた。本当にただの思いつきだ。何かを期待していたわけではない。
 が――
「ヒット無し、か」
 わかっていても、やはり落胆してしまう。
 はぁ……と大きくため息を漏らし、ガシガシと頭を掻きむしっていると、
「主殿、食事の支度ができました」
 クローディアが部屋に戻ってきた。思ったより早かったな、と思ったが、時計はすでに彼女が部屋を出てから四十分以上経った時刻を指していた。





     中編に続く...
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