2014/05/24

短編小説 『彼女の居ない工房』 中編

 実際こういう状況に陥ったら、私はどうするんだろうか。
 そんなことを考えつつ、物語の中の私を動かしてみました。
 しかし読み返してみると、「多分こんな風にはできないだろうなぁ」という結論に達しました。
 物語の主人公に自分を反映させても、やっぱり作り物にしかなりませんね。



【注意】
 この小説は創作です。登場する人物・名称等は現実のものと一切関係ありません。



 前編を未読の方は コチラ からどうぞ。

 


 まったくもって驚くことばかりである。
 どうやら私の食事はクローディアが全て作っているのだそうだ。それが妻の務めですから、と本人が言っていた。奥ゆかしい昔ながらの大和撫子といった感じだ。
 それはまぁ、いいとして。
 工房メイドたちの賄いご飯をあのアレッサが作っているというのだ。食材を兵器に転用してしまうという料理スキルの持ち主である、超絶料理下手のアレッサが、だ。
 しかし、そこはアレッサも並外れたカンの良さと飲み込みの早さを持っているし、徹底的に教え込み鍛えれば『それなり』の料理を作るようになれるだろう。
 だが、ここではそうではない。
 なんと、ひょっとしたら一流レストランで働けるのではないかと言われるローナよりも美味しい料理を作るのだ。正直これは驚く以前に嘘っぱちとしか思えない。
 思えないが――実際にアレッサが作ったというものを一品食したところ、言っては悪いがクローディアが作ったものよりも美味しかったのだ。
 本当にここは私の知るものとは別世界なのだと、ただの昼食一つで思い知った。
 食事を終えると、クローディアが食器を引き上げて部屋を出て行った。その後、メイリンがお茶を持ってきて、クローディアが出かけたことを知らせてくれた。おそらく仕事に戻ったのだろう。
 さて。
 これからどうすればいいのか。
 少なくとも私はこの状況を受け入れ、上手くやっていくことはできないだろう。パソコンに残されている『私』の仕事の一端を見た限り、工房の収入はすべて『私』の仕事によって賄われている。つまりメイリンがオーダーメイドの衣服を作ったり、クローディアが畑で採れた野菜を売ったり、ローナが資産運用して収益を上げたりといった、工房メイド隊の仕事の収入が皆無なのだ。それだけ『私』は仕事ができる人間だということだが……私はそれほど有能ではない。正直、仕事のファイルを見てもわけがわからない部分が多々ある。そんな状態の私に工房を存続させる仕事ができるだろうか。いや、有り得ない。
「……ってちょっと待て」
 ということは、この工房を存続させ、工房メイドを本当の家政婦のように使っている『南村ともみ』が存在するはずだ。そいつは今どこにいる?
「なんで気づかなかったんだ……」
 私がこの世界に飛んできた瞬間、この世界の『私』が向こうへ行ったのではないだろうか。平行世界の『私』が階段から落ちた(私は落ちてないのだから必然的にそうなる)ことがきっかけで何かの作用が起こり、入れ替わった。
 だから、工房メイドたちは私が『異世界の南村ともみ』だと気づかないんだ。
 ……どうする?
 みんなにそれを説明するか?
「……いや」
 誰がそんなファンタジーを信じるか。アニメや漫画が大好物な私だが、現実にそんなことが起こりえないことくらいはわかるし、大真面目にそれが起こってるんだ! と説明されても完全に信用しない。話しても頭の病院で検査を受けろと言われるのがオチだ。
 ならば無用な疑惑を持たせないようにするほうがいいだろう。
 とにかく。
 私がやるべきことは二つ。
 『私』を演じることと、元の世界に戻る方法を見つけること。
 この世界の『私』はおそらく私より優秀なのだろう。だから彼に成り代わるのは多分無理だが、やるしかない。そして、その間に元に戻る方法を見つける。
 まずは――
「パパ~」
 状況確認と今後の方針を固め、いざ行動開始――と言うタイミングで突然部屋のドアが開かれ、甲高い子供の声が飛び込んできた。
 三歳か四歳くらいだろうか、やや茶色がかった黒髪に赤みのある茶色の瞳をした、近所の幼稚園のスモックに身を包んだ可愛らしい女の子。それが私にまっすぐ駆け寄ってくる。
「え、ちょ……」
 突然の闖入者にとっさの反応もできず、ばふ、と女児がしがみついてくるのをただ見ているだけしかできなかった。
「綾子! ちゃんとノックしなさいといつも言っているでしょう」
 と、らしくなく大声を上げながら遅れてクローディアが入ってくる。
 そのとき気づいた。
 クローディアとこの女児が、母娘のようにそっくりだということに。
「ほら綾子、パパにただいまは言ったの?」
「パパ、ただいま~」
「…………」
「……? パパ?」
「あ、うん。おかえり」
 ほぼ脊椎反射で言葉を返すと、女児は嬉しそうに笑って「ママ~」とクローディアに駆け寄り、ばふ、と全力で抱き着いた。なんとも元気な子だ。
 母娘のようにそっくりだと思ったのも当たり前だった。本当に母娘なのだから。
 ……じゃなくて。なにこれ?
 いや、言われなくてもわかってるけれど。
 ここが平行世界だと理解した瞬間から、何が起こっても驚かないと決めたけれど。
 さすがにこれは驚きを隠せない。
「私の……娘……?」
 そうとしか考えられない。スモックに付いている名札には『みなみむらあやこ』と書かれているし、なによりクローディアをママと呼び、私をパパと呼んでいる。
 これが娘でなくてなんだろうか。
 それに、名前――
「綾子……」
「?」
 思わずつぶやいた名に、女児が反応して振り返った。そして満面の笑みを私に向ける。
「っ!」
 その瞬間、身体の奥底から何かがこみ上げてきた。決して温かい感情ではなく、どす黒い不快で強烈に吐き気を催す何か。
 女児から目を反らし、こみ上げる不快感を抑えようと口に手を当てる。そしてその姿をクローディアに見せまいと彼女に背を向けた。
「主殿、どうなさいました?」
「いや……なんでもない。くしゃみが出そうなだけだよ」
「そうですか」
 素直に信じたわけではないだろうが、クローディアはそう言って女児の頭を撫でた。
「綾子、手を洗って着替えてらっしゃい。アレッサがおやつを用意してくれているから」
「うん! パパと一緒に食べる!」
 そう言って、女児は廊下へ駆けて行った。それに続いてクローディアも「失礼します」と頭を下げて部屋を辞した。
「…………」
 何なんだ。これは。
 クローディアと結婚しているというだけでも大概なのに、子供までいるのか。
 しかも、名前が『綾子』。
 冗談じゃない。ふざけ過ぎにも限度がある。
 その名前は私と彼女の――
「……戻らないと。早く、一秒でも早く元の世界に帰らないと……」
 この世界は、本当に私がいていい場所ではない。
 この世界にはいられない。
 見知った全ては、どれもこれも私の知らないものばかりなのだ。
 なまじ知っているからこそ、ここにいられるような錯覚を起こしていただけだ。
 帰る――
 元の世界に。


 ……とは言うものの、どうやって帰ればいいのだろうか。
 平行世界へ飛ぶ方法など、ネットで調べたところでわかるはずもないし。検索にヒットするのはファンタジーの設定ばかりだ。役には立たない。
「…………」
 実は、一つその方法に心当たりはある。
 階段から落ちて平行世界に飛んだのだから、もう一回階段から落ちればいい。至極イージーな発想だ。
 しかし――
「無理だろ……死んじゃうよ……」
 寝室を出て廊下を歩き、二階と一階を繋ぐ階段の上に立って足元を見下ろす。わりと狭い空間に作られた階段だけに、結構勾配がきつい。そこをわざと転がり落ちるなど、どこのアクションスターだという話だ。少なくともヘタレな私が自分から転げ落ちることはないと断言できる。
 犠牲を払ってでもやらなければならない事態が起こると、それを上手く回避して逃げ続ける先送り上等な人生を送ってきた私のトンズラ能力を舐めないでいただきたい。
 こんなもの無理に決まっている。
 じゃあ元に戻れないではないか、と思うだろう。
 しかしそうじゃない。私が階段から落ちなくとも戻る可能性はまだあるのだ。
 この世界へ飛ばされる前、私は階段の近くにはいなかった。書庫で本を読んでいたのだ。なのに、この世界では私は階段から落ちたことになっている。
 つまり。
 階段から落ちたのは私ではなく『私』なのだ。この世界の『南村ともみ』だ。
 ということは、向こうにいる『私』が落ちてくれれば入れ替わりが起こり、私はダメージを負うことなく書庫に戻るはずだ。そうに違いない。
 頼む! そっちにいる『私』! 今すぐ階段から落ちてくれ!
 ……うむ。我ながら最低な人間の発想だナ。
 だが気にするな。同じ私じゃないか。頑張ってほしい。


 予告通り、女児(悪いが名前で呼びたくないのだ)は私と一緒におやつを食べようと、アレッサが作ったというシフォンケーキを持って、クローディアを伴って部屋に戻ってきた。もともと子供が苦手な私ではあるが、この女児が私の娘だという設定の芝居をしなければならないので全力を傾けて精一杯『父親』を演じた。
 女児は美味しそうにケーキを頬張っていて、クローディアが眩しそうにそれを見つめている。なんとも母娘の微笑ましい光景だ。
 だが、私はそこに入っていけない。
「……?」
 おそらくこの子は、私の態度のぎこちなさを感じているのだろう。時折不思議そうな表情でじっと私を見上げてくる。そばにいるクローディアに至っては、何も言わないものの明らかに違和感を持っている気配だった。私の芝居が全然なっていないせいだが……メイリンの演劇部仕込みの演技力が心底羨ましいと思った。
 演技に気を取られ過ぎてアレッサのケーキの味もわからぬままにおやつの時間が過ぎた。女児は眠くなったというのでメイリンに連れられて子供部屋(そんなものがあったのか)へ引き上げ、クローディアは道場の様子を見てくると工房を出て行った。
 私はひたすら『私』が階段から落ちてくれることを心待ちにしつつ、書庫から持ち出した小説を読んで暇をつぶしていた。蔵書内容は私が知っているものと若干違うものも混じっていたが、概ね同じだった。ここへ飛ばされる直前に読んでいた作品ももちろんあり、途中だったストーリーを再開させていた。
 窓の外が茜色から紫色に変わる頃、ローナが食事の支度が出来たと知らせに来て、クローディアと女児と三人で夕食を取った。その途中でうっかりまたクローディアを本名で呼ぶのを忘れて妙な空気になってしまった以外は、特に問題無く済んだ。と思う。
 そしてその夜。
 工房メイドは全員住み込みで働いているという衝撃の事実に驚愕しつつ、私は風呂上りでさっぱりした身体を寝室のベッドに投げ出した。見慣れた天井をぼんやりと見つめ、早く元の世界に戻らないかなぁ……と人任せな願望を思い浮かべる。
 自分から飛ぶほうが早いんじゃないか。と思うが、階段から落ちれば必ず飛べるとは限らない。成功すれば、『私』が普通に過ごしていてさえくれれば、入れ替わった私がその状況を引き継ぐだけで危機に見舞われることは無い。
 しかしもし空振りだったら、死にそうなほど痛い思いをするだけで終わってしまう。
 その成否の確率は不明で、失敗した場合のリスクが大きすぎる。そんなギャンブルは私の信条から外れている。
 だから、『私』に託すしかないのだ。
「……頑張れ、『私』」
 他人には言いたくない無責任な努力の押し売り言葉を異世界の自分に贈り、重くなってきた瞼を閉じ、心地良い睡魔に身を委ねる。間接照明の薄明りに揺らめく影が壁や天井を踊って、瞼越しに明滅――
「っ!?」
 というところで、誰もいない部屋に動く影があることの不自然さに気づいた。慌てて身体を起こすと、いつの間にか部屋の真ん中に人影が一つたたずんでいた。ベッド脇に置いたメガネをかけるまでもなく、その人物が誰なのかはわかった。
「クロ……紗織? どうしたの?」
 淡いピンク色のパジャマにカーディガンを羽織ったクローディアが、黙したままじっと私を見ていた。
「私も休もうと思いまして」
「そっか。おやすみ」
「…………」
 おやすみの挨拶をして、私はベッドにもぐった。
 その瞬間、クローディアは小さく呻き声を上げ、膝を折った。その音に驚いた私は布団を跳ね上げて上体を起こす。床にうずくまる彼女には凛とした空気は無く、いついかなる時も纏っていた剣士の気配は完全になりを潜め、小さな子供になってしまったかのように今にも泣きそうな表情をしていた。そんな彼女を初めて見た気がする。
「ど、どうしたの紗織?」
「……私と一緒に寝るのは、お嫌になられたんですか」
「え? ……え?」
 どういうこと?
 ってどうもこうもあるか。この世界では私とクローディアは夫婦なのだ。一緒に寝るのに不思議など無いだろう。
「嫌なわけないだろう。えっと、その、階段から落ちたせいでちょっとボーっとしていただけだから」
「…………」
 慌ててフォローするが、クローディアは床に座り込んだまま動かない。悲しそうな顔で私をじっと見つめているだけだ。剣を置いたとはいえその眼力は鋭さを失っていない。
 拙い。これはかなり拙い。
「あの、紗織……」
「主殿。少しお話しを……よろしいでしょうか」
 真剣な空気に気圧され、私は思わず無言で何度もうなずいてベッドの上に正座する。
 クローディアは少し迷うように視線を床に這わせ、やがて私を見た。薄明りの中でもはっきりとわかる、悲しそうな顔をしていた。
「主殿は、私たちから興味を無くされたのですか」
「……!」
 思いのほか直截的な言葉に、ぎくり、としてしまった。気付かれてしまっただろうか。
「……なんでそんなことを訊く?」
「最初は階段から落ちたことによる一時的な混乱で、主殿の言動に違和感があるのだと思っていました。ですが、あなたは何ともないとおっしゃいますし、工房メイドも私もきちんと認識なさっています」
「まぁ、それはそうだろう」
 実際、差異はあるものの知っている人間なのだから認識はできる。
「なのに、私のことを昔の称号で呼び、綾子をまるで異物を見るような目で見ておられました。あなたが名を与え、溺愛してきた我が娘をあんな目で見るなんて……」
「…………」
「つまりそれは……私や綾子に対する愛情を失ったということなのではないですか」
 クローディアは感情を抑え、言葉を選びながら、思うところを正直に吐露した。この真っ直ぐで真摯な姿勢は、私の知るクローディアとなんら変わるところが無い。
 そんな彼女にこんなことを言わせてしまったのは、なんという失態だろう。
 ――違う、そんなことは無い。
 と、安易に言うことはできる。それでクローディアは安心するのかもしれない。
 だが、それは彼女の気持ちを踏みにじる行為ではないだろうか。
 私は彼女が愛している『私』ではない。その偽物が千言万語を弄したところで、何が伝わると言うのか。
 しかし……私は『私』ではない、異世界から来たんだ、などと言って一体どうなるのか。真剣な話をしているときにそんな妄言を聞かされたら、彼女でなくとも怒るか愛想が尽きるだろう。
 どうすればいいんだ……?
 間違った対応は絶対にできない場面。過去、こんな状況にならないように逃げ続けてきた私だが、否応なく逃げる以外の選択をしなければいけないところまで追い込まれてしまった。どうしていいか、わからない。
「……私は」
 言葉に詰まり、何も言い返せない私を真っ直ぐに見つめたまま、クローディアは口を開いた。
「私たちには、あなたしかいません。私の夫はあなただけで、綾子の父はあなただけです。……私たちに興味も愛情も無くて構いません。ですが、もし許されるのでしたら、あなたのそばに居させてください。私たちのそばに、居てください。お願いです」
 言ってクローディアは――泣いた。鉄仮面の彼女が、ぽろぽろと大粒の涙で頬を濡らしていた。
 その姿に、言いようもない激しい怒りが身体の奥底から湧き上がってきた。
「……バカか」
「そ……うですよね……。すみません」
 勝手に私の口からそうついて出た。自分に叩きつけるはずだった罵倒の言葉を、クローディアに向けてしまった。
 異様なほど自分に腹が立った。わかってはいたが、つくづく私は最低な人間だ。死にたくなるほど嫌になる。
 彼女に愛されるのは決して私ではないと、心底痛いほど理解した。
「一つ、頼みがあるんだが」
「なんでしょう?」
「思いっきり、俺を殴ってくれないか」
「え……?」
 予想外の一言だったのか、クローディアはぽかんと目を見開いた。一人称が『俺』に変わっていることにも驚いているようだ。
「あなたにそんなこと……できません」
「やってくれ。工房の守護剣士として、工房主を正してほしいんだ。そうしてくれなければ、俺はすべてを壊してしまう。だから、頼む。クローディア」
「…………」
 しばしの逡巡。
 クローディアは頬の涙を拭い、表情を消した。
「覚悟はいいか、主殿。私の全力だ。……死ぬほど痛いぞ」
 私の知っている剣士クローディアに戻り、彼女は言った。
「遠慮は無しだ。来い」
 ぐっと奥歯を噛みしめ、目を閉じて懺悔の一撃を待つ。
 ふ、と空気が動いたと感じた瞬間、ぱぁん、と平手打ちが頬を打った。突き抜ける衝撃は拳骨と何ら変わりない、閉じた瞼の裏が真っ白になるほどに重い一発だった。
 さすがはクローディア。平手打ちでも凄まじい威力だ。本当に死ぬほど痛い。
 この痛みが、クローディアの心の痛みに匹敵していればいいのだが。
「大丈夫ですか……?」
「あんまり大丈夫じゃない。けど、これは受けなきゃいけない罰なんだ。紗織が気にすることじゃないよ」
「すみません。強すぎましたね」
 剣士から妻に戻ったクローディアは、叩いた私の頬にそっと触れて心配そうな顔をしていた。私はその手を取り、彼女を引き寄せた。
「ごめん、紗織。不安にさせて。今更何を言っても無駄かもしれないけど、これだけは言わせてほしい」
 ぎゅ、とクローディアを抱き寄せ――そうになったが、それは『私』がやることであって私がやることではないと思いとどまり、両手を彼女の肩に乗せるだけにした。
「紗織と綾子のことが嫌いになったなんてことは絶対に無いから。興味が無くなったなんて、有り得ないから」
 彼女らにここまで愛されている『私』が、二人に興味が無くなるなんてことは絶対に無いだろう。そして姿形が同じだけの私がそれを壊してはいけない。
 嘘でも何でもいい。それだけは紛れもない『真実』としてクローディアに伝えておかなければいけない。
 そう思った。
「昼間の私の態度を考えれば、この言葉は信じられないかもしれない。でも、信じてほしい」
「……信じます。私が夫に選んだ人を、私が信じなくてどうしますか」
 言って、クローディアは嬉しそうに笑った。その表情には曇り一つなく、その言葉に嘘偽りは見えなかった。
 どうやらわだかまりは解けそうだ。
「主殿、私は綾子と一緒に休みます。明日にはいつも通りのあなたであることを願います」
「うん。大丈夫。ありがとう」
「では、おやすみなさい」
 ゆっくり丁寧に頭を下げて、クローディアは部屋を出て行った。
 ……彼女の優しさ、なのだろう。不安でたまらないはずなのに、私を一人にして一晩考える時間をくれるらしい。ありがたいことこの上ない。
「そうと決まれば――」
 ベッドを出て、デスクのパソコンの前に陣取り、電源を入れた。
 今すぐにでも階段からダイブしてやりたいところだが、それで元の世界に戻れる保証はないのだし、ただ単にケガをしてクローディアたちに心配をかけるだけという結果になるかもしれない。少なくとも何らかの可能性を見出せるまで、飛ぶのは控えた方がいいだろう。
 そうすると、私は明日以降もこの世界で『私』を演じなければならない。そのためには『私』の仕事を覚え、こなしていく必要がある。パソコンに保存されている資料を精査し、記憶し、実践する。
 やれるかどうかではない。
 やるんだ。
「……?」
 気合いを充填し、いざ資料を――というところで、デスクトップに一つのファイルがあることに気づいた。基本的にデスクトップにはフォルダやファイルを置きたがらない私が、昼間にこのパソコンを使った時にこんなファイルが置かれていて気づかないはずがない。それが、いつの間にか増えていた。
 ファイル名は『見てはいけない』、拡張子はOS付属のメモ帳のものだった。
 ……見るなと言われたら見たくなるのが人情というものである。
 遠慮がちに、しかし指は最速でファイルをダブルクリックした。ウインドウが開き、数行の文章が表示される。

『見るなっつってんのに見てんじゃねーよ』

 最初の一行がこれだった。ウイルスの類だったのか、これ。危険なファイルを開いてしまったんじゃないだろうな……?
 そう思ってさらに文章を読み進める。

『まぁ、否応にもこのメッセージを見てもらうにはそういうファイル名をつけるのが効果的だろう。なにせ自分のことだ、よくわかる。
 私の推測が正しく、奇跡が起きているなら、おそらくこの文章を読んでいるのは私ではない南村ともみのはずだ。そう、平行世界の私だ。
 こちらの世界のパソコンに私の記憶と合致するファイルが多数存在するし、取得日時やアクセス日時を見ているとほぼ同じで、ひょっとしたらそっちとこっちのパソコンは何らかのつながりを持っているんじゃないかと思った。
 そこで、こうして平行世界の私と通信できるかもと思い、このメッセージを書いている』

 マジか。この世界の『私』って頭のキレがいいんだな。昼間に散々パソコンで遊んでたのに気付かなかった。

『もし、これがもう一人の私に届いているなら、何か一言書いて上書き保存してくれ。おそらく、それでこちらの同じ名前のテキストファイルにお前のメッセージが残るはずだ。よろしく頼む』

 なるほど。さっそく書いてみよう。

「グッモー」

 で、保存……と。
 そして一旦ファイルを閉じ、再び開く。開きっぱなしでは内容が更新されないだろうから、面倒でもこの作業は必要となる。
 ファイルアイコンにマウスを乗せると、先ほどより少しだけ容量が増えているポップアップが出た。返信が早いな、向こうの『私』。
 先ほど私が書いた一行の下に、また数行の文章が増えていた。
 その先頭が――

『キミはアホの子なのか?』

 ……ああ、間違いなく相手は『私』だ。このネタにこの返しができるヤツは他にいない。

『よかった。なんとか通じたらしいな。しかし返信まで二週間待たされた。ネット中毒のお前がなんでそんなにPCを使わなかったのかが不思議でならない。ひょっとしたらこっちとそっちで時間の流れが違うのかもしれないけどな。
 それはともかく。お前もそうだろうが、私も早く元の世界に戻りたいと思っている。そのためには、やはり入れ替わったきっかけになった出来事をもう一度やらなければならない。私は階段から足を滑らせて落ちて、気が付いたら書庫にいたんだ。お前はその逆だろう?』

「私は目覚めてまだ一日も経っていないぞ。というかそっちは二週間も経っているのか。よく耐えてるなぁ……私なんかたった一日で周囲が違い過ぎて疲労困憊だよ。
 目覚めたときの状況は、お前が言う通りだ。私は書庫にいて、気が付いたらベッドで眠っていた。メイリンやローナが私は階段から落ちたって言ってた。実際肩が痛かったし、そうなんだろうな」

『混乱はあったさ。けど、私が元いた世界より随分温い生活してるだろ、お前。つか、仕事してんの? 工房メイド隊の仕事で工房を運営するとか正気か? 工房メイド隊の雇い主で彼女らを食わせていかなきゃならないって自覚があるのかお前。というかアレッサだ。何なんだあれは? 主にタメ口きくし言うこと聞かないし、何よりあのメチャクチャ不味い料理は何だ? お前アレッサに家事を叩き込んでないのか? さすがに温厚な私もエキサイトしちまったぞ。メイリンもいい加減なバイトの高校生みたいだし……。
 ……いや、世界が違うんだから、私の価値観を押し付けるのは間違ってるな。すまん。
 やはり、入れ替わりのきっかけは階段からの落下で決まりだな。そうすると、元に戻るには飛ぶしかないが、問題はどっちが飛ぶか、だ。私かお前か』

「お前も同じ南村ともみだったらわかるだろ。そんなわずかな可能性に賭けて飛べるほどの勇気は私には無いぞ」

『わかってるよ。お前に飛べとは言わない。
 失敗してケガをするだけかもしれんが、私には守るべきものがあるんだ。そのためならやるしかない。
 だから、私が飛ぶ。お前は何もせず、できるだけ誰にも会わない場所でじっとしていてくれ。いいな?』

「わかった。自分から私のために痛い目に遭おうなんて、お前、いいヤツだな」

『まぁ、同じ私だからな。
 じゃあ、次にお前からの返信があった約十五分後に飛ぶ。元に戻れるよう、お前も祈れ』

「了解。頼んだ」

 という私の返信を最後に、ファイルの容量は増えなくなった。
 時計を見ると、午後十一時四十三分だった。日付が変わるかどうかというタイミングで入れ替わるかもしれない、ということだ。
 それまで何をしようか――と考える間もなく。
「……っ!」
 ぐらり、と頭が揺れ、身体中の力が吸い取られるように抜けて行った。
 なんとなくこの感覚を知っているような気がして、ほどなく書庫で読書しているときに感じたものと同じだと自覚する。
 つまり、平行世界間を移動している、ということだ。
 向こうの『私』が階段から飛んだのだろうということも、すぐに察しがついた。十五分後とか言いながらいきなり飛びやがった。せっかちな野郎だ。
 ……いや、時間の流れが違うとか言ってたな。そのせいか?
「…………」
 意識が少しずつ白くなっていく。身体の自由はもう無い。
 私はパソコンに向かったまま、椅子の背もたれに身体を預け――そのまま気を失った。





     後編に続く...
創作小説 | Comments(0)
Comment

管理者のみに表示
« 案外面白い | HOME | 散文 »