2015/05/28

短編小説『十円玉は知っている』 前編

 書かないといけないんだけどなー、と思って早5年。
 以前に書きかけで放置していたシーンを組み込み、残りを勢いに任せて書いたら、これがまあなんとも変な文章になってしまったりしたわけでして。

 しかし一応最後まで書けたということで投下しちゃいます。
 変な読みにくい文章かもですけど、ご勘弁ください。



【注】この作品はフィクションです。登場する人物・名称等は現実のものと一切関係ありません。

 


 すっ、と男が纏う空気に焦りの気配がかすかに混じったことに気づいたのは、恐らくその場にいる十数人の中では彼女だけだっただろう。それほどに男が厳しく自制していても、前髪に隠された彼女の両の目に睨まれると簡単に思考の扉を開け放たれてしまう――そんな錯覚に陥っていた。
「どうしました? あなたの番ですよ」
 この緊張した雰囲気の中では場違いな微笑みを湛え、彼女は先を促した。
 彼女と男が向かい合って座るテーブルを見物人たちが取り囲み、勝負の行方を見守っている。狭い部屋に大勢が押しかけているせいで熱気がこもっていて、緊迫した空気と相俟って酷く息苦しい場だった。
 そんな中にいてさえ、涼しげな笑みを浮かべる女――ミルクティーのような色をした前髪で顔を半ばまで隠し、一切表情を読ませないその存在は奇妙であり、ひどく不気味であった。
「わかっている。すぐにやってやるさ」
 言いようの無いプレッシャーをはねのけようと、男は強がった調子でテーブルの中央に手を伸ばした。そして角砂糖と同じくらいの大きさのサイコロを一つ、右手に握りこむ。
 勝負の方法は単純明快。サイコロを一つ互いに一回ずつ振り、数が大きい方が勝ちというシンプルなものだ。運とサイコロの出目をある程度操作する技術があればそれなりに勝利できるゲームである。
 男はサイコロを手の中で転がし、出目を調整するように微妙に動きを変えて、テーブルに投げた。
 女の出目は『三』。『一』から『六』まである六面賽を使用している以上、単純に五十パーセントの確率で勝てる勝負だ。何を恐れることがある。
 そう思って投げたサイコロは、磨き抜かれた木目の美しいテーブルにコロコロと転がり、やがて止まった。その出目は――
「バカな……ッ!」
「私の勝ち、ですね」
 血のように紅い目を天井に向けたサイコロから顔色を無くした男に視線を向け、彼女はニッコリと微笑んだ。


 建物から出て天を仰ぐと、数時間前は星が瞬いていたはずの空がどんよりと暗くなっていて、しかもわんわんと泣き出していた。
「傘は持ってきていないんだけれど……仕方ない」
 と深くため息をつき、彼女は諦めて街の灯りを反射する濡れた夜道を駆け出した。ぱしゃぱしゃと水溜りを撥ね散らかしながら、靴や足が濡れてもお構い無しに走り続ける。
(……やれやれ……)
 通りを右に左に走り抜け、建物の隙間を縫い、壊れているらしく照明が消えた自動販売機の陰に隠れて息を潜める。あまり体力に自信の無い彼女は『おいかけっこ』が好きではないのだ。
「くそ、どこへ消えた?」
「そう遠くへは行っていないはずだ、探せ!」
 そんな悪役追っ手の伝統行事のようなセリフを恥ずかしげも無く言い合い、自動販売機の陰の彼女に気づかぬままに男たちはどこかへと走って行った。いわずもがな、彼女を追っているのだ。
 先ほどのサイコロ勝負は始まってから一方的に相手のペースで、誰がどう見ても彼女の敗北が濃厚だった。ところが最後の一投でそれまでの負けをひっくり返す大逆転勝利となった。それにより手にしたのは、一般的なサラリーマンの半年分の給料に近い金銭である。
 今夜彼女が相手していたのは、そんな大金を易々と用意でき、それをサイコロに賭け、それを持っていかれて黙っていないタイプの人間だった。素人相手にイカサマ賭博で法外な金銭を巻き上げておいて、いざ自分が奪われたら目の色を変えて力ずくで取り返そうとする、そういう類の相手だ。そんな連中に捕まりでもしたら、彼女が得た金銭はもとより命すらも危うい。だから何が何でも逃げ切らなくてはならなかった。
 もっとも、こういう状況にはもう慣れっこだったので逃げ切る自信は微塵も揺るがない。
「…………」
 そっと物陰から顔を出し、周囲を見回す。追っ手らしき人影は見当たらないが、警戒は怠らないように降りしきる雨を上手く利用して人込みに混じり、大通りに出た。追っ手の数がそれほど多くないときは、こそこそ裏路地を逃げるよりも人込みに紛れてしまったほうが見つかりにくい。加えて雨が降っているため傘の花が咲き乱れていて、それが小柄な彼女の姿を覆い隠してくれる。
(あーあ……三日分くらいの生活費が稼げればいいと思っていたのに、まさかあそこで調子に乗ってバカ丸出しのレイズを仕掛けてくるなんて。それで想定外の儲けになっちゃって、それで追われるなんて、今日はツイてないのかしらね……。はぁ、もうこの街じゃお仕事しないほうがいいか……)
 今晩の相手の間抜けっぷりと小物っぷりにうんざりしつつ、適当に時間を潰せそうな場所を物色し始めた。
 

 波乱。
 彼女のここまでの人生を一言で言い表すと、それがもっとも適切なのではないだろうか。
 ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれた彼女は、生まれつき右目の色素が薄く、薄緑色の左目とは違って血のように禍々しい紅色をしていた。そのせいで両親や周囲の人間が気味悪がり、彼女を避けた。前髪を長く伸ばして顔を隠しても、その両目を見た者は決まって彼女を忌避し、学校でも友人はできず教師も近寄ろうとしなかった。彼女は顔を隠すことで孤立し、顔を見られてもまた孤立するというどうしようもない理不尽にさらされていた。
 唯一、その瞳を受け入れてくれたのは彼女の妹だったが、不幸にも彼女の十三歳の誕生日に他界した。姉の誕生日プレゼントを買うために一人で街に出たところの交通事故だった。そのため両親は、妹の死は彼女のせいだとして激しく責めた。挙句、呪いの言葉とともに親子の縁を切られてしまったのだ。
 両親に捨てられ居場所を無くした彼女を迎えたのは、母方の祖母だった。日本で一人暮らしをしていた祖母の元に引き取られた彼女は、新しい環境と頑なに顔を隠すことへ向けられる悪意に四苦八苦しながらも中学校に通い、高校で生涯の親友と言える三人の友人と出会い、必死の努力の結果、一流大学へ進学することができた。そして彼女を外見で判断しない企業に就職し、祖母に楽させてあげたいという目標に邁進した。
 しかし、大学在学中にまたも不幸が訪れた。祖母が病気で倒れ、一年の闘病も空しくそのまま帰らぬ人となってしまったのである。彼女に人並みの生活をさせようと無理して働いていたことで、病気に気づくのが遅れたのが致命的だった。祖母が亡くなったあと、多額の入院費と借金の返済のために財産と家を売らざるをえなくなり、大学へ通うための資金もそれに消えて、二年の夏に中退した。
 彼女は身一つで放り出されたも同然だった。家もない、家族もない、居場所もない。ただわずかなお金と絶望が残っただけ。祖母の死でたった一つの頑張る理由を失い、生きる意味すらわからなくなっていた。
 だが――絶望していても、呼吸をしているだけでもおなかは減る。死ねばそれも感じずに済むのだろうが、自らの命を削りに削って頑張ってくれた祖母を思うと、自分の意思で死を選択することはできなかった。
 何でもいい。理由なんてわからなくていい。とにかく今は生きよう。ごはんを食べよう。
 そう思った。
 とりあえず空腹を満たすためにお金が要る、それを得るためには――と彼女は違法賭博を選んだ。身寄りも無く、素性を保証してくれる人も無しではまともな仕事には就けない。女であることを生かした職業も、彼女の異常な両の瞳のせいで断念せざるをえなかった。彼女のような者の需要はあるにはあるが、お世辞にもまともとは言えず、リスクが大きすぎた。ゆえにギャンブルに活路を見出すしかなかったのである。
 幸か不幸か、彼女には常人をはるかに超える頭脳と器用な手先があった。多種多様な知識を収集し、イカサマ技術を磨き、裏の世界で生きていくだけの術を身につけていった。
 決して目立たず、常に必要最低限のお金だけを得る勝負をする。そして必ず勝つ。ある程度街に滞在して少額を稼いだら、目をつけられる前に離れ、次の街でまた稼ぐ。それを繰り返した。
 もちろん、その小額の勝ちで危険が及んだこともある。負けることが大嫌いな相手に当たり、小学生の小遣い程度の勝ち負けで刃物を突きつけられたりもした。そういうときは言葉巧みに相手をやり過ごした。実力行使を躊躇わない相手でも、前もって用意した道具と逃走手段で逃げおおせた。
 もっとも、逃げ切れずに捕らえられ、命を落とすことがあったとしても、それはそれで仕方がないと常に考えていた。勝てばごはん、負ければ空腹を満たせずゲームオーバーという、極端だが単純明快なゲームに身を投じているのだから、結果はどうなろうと受け入れるしかない。残機もなければコンティニューも無い、それが現実というものである。
 だからといって負けてもいいなどとは考えたことはない。死ぬのも痛めつけられるのも嫌だし、おなかが空くのも嫌だった。そうならないためには勝つしかない。勝ち続けるしかない。
 そんな自暴自棄な諦観を背負い、夢も希望もなく、ただおなかが空かないようにと彼女はいくつもの勝負を行い、いくつもの街と夜を越えて――気がつけば、二年が経っていた。


 なんとなく気分が落ち着かない。
 そんなことを思いつつ、彼女は建物に区切られて狭くなった星空を自動販売機の陰から見上げた。見慣れない空を仰ぐのはいつものことだが、こうまで不安感がざわざわと湧き上がってくるのは今までになかったことだ。
(ここに来てまだ三日だけど、早めに移動した方がいいか……)
 二年間で培った危機への直感が、これ以上の滞在に警鐘を鳴らしている。このままではきっと人生をひっくり返すような何かが起こる。そう思った。
 ――その予兆は確かにあった。
 一週間前に他所の街で危ない連中に追い掛け回されたこともそうだが、この街に来て最初の獲物に選んだ冴えない中年男が警鐘の主な理由だろう。
 通りの隅で獲物を探していると中年男から彼女に声を掛けてきて、コイントスの一回勝負で彼女との一夜を要求し、掛け金は非常識にも三百万円を積んだ。男が酔っていたこともあるだろうが、前髪に隠された顔を見ることもせず、若い身体だけを見て彼女にはそれだけの価値があると下品な口説き文句を並べて強引に勝負を迫ってきたのだ。
 後で聞いた話では、その男は零細企業のワンマン社長で、あちこちにギャンブルと女で借金を作っており、その返済のためにギャンブルで稼ごうとしているとのことだった。
 正直なところ、そんな酔っ払いの相手になる気はなかったが、背後に危険な人間の気配もなく、トスを彼女に任せるという脇の甘さがあり、何より聞くに堪えない卑猥な言葉のシャワーに少々立腹していたため、遠慮なく『技』を使って毟ってやった。男は帯三つを失ってしょげていたが、それを持ち去る彼女に絡んだりはしなかった。
 しかし、その勝負で大金を手にしてから、妙に首筋の後ろあたりがチリつくような感覚がまとわりついていた。久々の大入りだったせいで少々神経が昂っているだけ……とその時は思ったが、一晩経ってもそれは治まらなかった。喉がひりついて気分がざわつく、嫌な感覚だった。
(やはりここを出るほうがいいか……)
 自動販売機で飲み物を買い、それを飲んだら移動を開始しようと決めた。ポケットから小銭を取り出し、一枚、二枚、と自販機に飲み込ませる。
 ……が、あと一枚、十円玉が足りなかった。他のポケットを漁っても出てくるのは五円と一円だけで、このままでは千円札を使うしかない状態だった。
「はぁ……」
 やれやれとため息をつき、流れが悪いときはこんなものかと硬貨返却レバーに手を伸ばした――そこで。
 ちゃりん。
 と十円が投入された。並んだボタンに一斉に青いランプが付き、彼女の顔に照り返す。
 一瞬の硬直の後、慌てて振り返ると、背後に金髪の女が立っていた。その姿に彼女が唖然としている様子を見て、金髪の女は可笑しそうに口の端を吊り上げて笑った。お世辞にも人好きのする笑みではなかったが、不思議と悪意は感じられなかった。
「使いなよ。遠慮はいらない」
「……どうも」
 お言葉に甘え、遠慮なくカフェオレを買って缶のタブを起こした。続いて金髪女は自販機に硬貨を投げ込み、炭酸飲料のボタンを押した。がたん、ごろん、と取出口に落ちてきた缶を無造作に取り上げてタブを片手で器用に開け、豪快に喉へ流し込む。
「……紅茶じゃないんですか」
「ん? ああ、あたしは炭酸のほうが好きなんだよ」
「『メイド』なのに?」
 言って彼女は金髪女を頭の天辺からつま先までじろじろと見つめた。
 薄暗い裏路地の寂れた街灯でもはっきりわかる澄んだ金髪を頭の左側だけで纏め、シッポのように肩に垂らしていた。長身で端整な顔立ち、切れ長の吊り目から覗く蒼い瞳はどことなく鋭さが感じられる。黙って真面目な顔をしていればクールビューティと評されそうだが、今は炭酸飲料がお気に召したのか緩みきった表情をしていた。しかしそれも絵になる、そんな美人だ。
 にもかかわらず、着ている服はなんと『メイド服』だった。肩フリルいっぱいの白いエプロンドレスにフリルのカチューシャ、薄紫色のワンピースドレス。ヴィクトリア朝のメイドが十九世紀から抜け出してきたような格好をしている――かと思うと、靴だけは軍用のジャングルブーツというからますます正体がわからない。ここは秋葉原でも日本橋でもない。ましてやコスプレ会場でもない。今は深夜一時を過ぎているし、風俗の衣装にしても地味すぎて扇情的な要素がなく、とにかく奇妙だった。
 そんな何もかもが謎に包まれた金髪メイドだが、ただ一つ、彼女にもわかることがあった。
 この女は自分を目当てにやってきた、ということだ。そういう気配がありありと滲んでいる。
「それで、私に何かご用ですか?」
 飲み干したカフェオレの缶をゴミ箱に捨て、彼女は顔を伏せたまま訊いた。メイドは一瞬意外そうな表情をしたが、それなら話は早いと笑う。
「昨日、エロいオッサンから三百万を巻き上げたろ。その件でちょっとな」
 やはり、と彼女は思った。こういうときの直感はよく当たるのだ。
 同時に、その直感に頼るなら、このメイドは危険な何かで、関わってはいけないということになる。
「さて。何のことでしょう、わかりかねます。では、私はこれで……」
 すっとぼけてさっさと立ち去ろうとするが、メイドはその前に立ち塞がり、両手を挙げて話を聞けとジェスチャーした。彼女に危害を加えるつもりはないという意思表示なのだろう。
「あー、勘違いすんな。あたしはそいつの使いじゃねーから。あんなどうしようもないオッサンなんかに仕えてたまるかってな。ちっとばかしアンタに『お願い』しに来ただけだ」
「……そのスカートの下に隠しているモノを使って?」
「使ってほしけりゃ使うけど」
 メイドはその指摘にさして驚くでもなく、炭酸飲料の缶を紙くずを丸めるようにくしゃりと握りつぶして嘯いた。ブラフとは言え、隠しているものを言い当てられると少しは動揺するものだが、このメイドには通用しなかった。
 それにどうやら、武器を使わずとも彼女を組み伏せられるだけの力も自信もあるらしい。これは一刻も早く逃げなければいけない相手だと確信した。
「まぁ、こんなところで長話もなんだし、ファミレスでも行くか。さっき十円奢ってやったから、今度はアンタの奢りな?」
「お断りします」
 メイドの無茶な提案に彼女は即答した。メイドは露骨に眉根を寄せてため息をつく。
「なんだよ、奢るのは嫌か? 三百万も持ってるくせにケチなヤツだな」
「違います。あなたなんかと一緒にいると目立って仕方ないんですよ。私は仕事に差し支えるので目立ちたくありません」
「あー……それもそうだナ。じゃあここでいいや」
 と自販機の前に腰を下ろし、彼女を見ながら横の地面をぺしぺしと叩いた。そこに座れということらしい。
「…………」
 もちろん座る気は無いが、このまま立ち去らせてもらえそうな雰囲気でもなかった。仕方ない、適当に口先三寸で言いくるめてやるか、と立ったままメイドを見下ろした。
「それで、何をお願いするんですか?」
「いや、その前に座れば?」
「お断りします」
 立っていれば逃げる際に少しでも有利になるからという理由もあるが、こんな正体不明のメイドと並んで座って話して、誰かから友達同士だと思われるのが嫌だという気持ちが先に立っていた。
 はぁ、とメイドは諦めのため息をついて、まァいいやと本題を口にした。
「あのオッサンの件って言やあ、話は決まってんだろ。カネ返せ、ってことだ」
「でしょうね」
 あまりにもあっけらかんとした物言いに、彼女はうっかり三百万の勝負をしたことを自白したも同然の返事をしてしまっていた。もっとも、このメイドは勝負の件を確信しており、隠しても無駄だとわかっていたので訂正する気はなかった。
「そのカネな、ウチへの支払いに使う分も入ってるんだよ。あのオッサン、支払いが三ヶ月滞ってるもんでシビレ切らせて集金に行ったら、カネは払えないとか抜かしやがる。で、事情を聞いたらギャンブルで負けたって笑いながらのたまうわけさ。アタマにきてとりあえずそいつのドタマを蹴り飛ばして今後一切テメェの仕事は受けないと宣言してから、ギャンブルの相手の風体を聞き出して、アンタを見つけたってわけだ。特徴あるからな、さほど苦労はしなかった」
「お話はわかります。ですが――」
「わかってんよ。アンタにも生活があるんだろうし、簡単に返してもらえるとも思ってねェ。そもそもそんなバカなギャンブルをやらかしたオッサンが悪い。自業自得だ」
「…………」
 取立て屋にしては随分言うことが温い。むしろ取立てを諦めているようにも見える。
 交渉というのはもっと主張を押し付け合うものではなかったか?
 譲歩を引き出すための芝居? それとも単に交渉が下手なのか?
 なんとなく、彼女はそう思った。
 メイドは続ける。
「けど、自業自得のシワ寄せがこっちに来ちゃたまらないわけでさ。つーわけで、ウチに支払われるはずだった三十万と四千三百円。それだけでいいから返してもらえないか? それ以外は別にどうでもいい、アンタのものだ」
「……は?」
 予想外の言葉に、彼女は思わず声を上げていた。
「全額じゃないんですか?」
「は、全額返せって言ったら返してくれるのか?」
「まさか」
「だろうが。だからウチの取り分だけ、なんとかならないかって『お願い』してんだよ。それがないとあたしらの今月の給料がゼロになっちまう。ギャンブラーのアンタのことだから勝負して取り戻せっつーかもしれないけど、あたしゃハッキリ言ってギャンブルでアンタに勝てる気がしない。メイド長がそれを許すとも思えねェし。だからアタマ下げるしかねェんだ。頼む」
「…………」
 確かに『お願い』だった。武力を所持し、明らかに彼女よりも力では上に立っているにも関わらず、このメイドはそれを使おうとはしていない。強制はせず、あくまでも『お願い』しているだけだった。
(しかも泣き落とし、か。そんなことで私を説得できると? 甘い、甘すぎる……)
 ただのお人好しなのか、下手に出ているだけなのか。
「嫌だ、と言ったらどうします?」
 それを見極めるには、反発してみるのが手っ取り早い。お人好しなら諦めるし、悪人なら舐められたと思って武力に訴える。このメイドはどちらだろうか。
 彼女としては、メイドの申し出を受けて三十万余を返しても一年は食べていけるだけの金額が残るのだから、ここはトラブルを避ける代償として支払っても痛くも痒くもない。
 しかし彼女にはルールがあり、それは『勝ち分は決して返さない』というものだった。そのせいで何度も危険な目に遭っているが、それを曲げてはいけないと自らに枷を嵌めることで、勝負や生きること自体に緊張感を保ってきた。文字通り『勝ち分』は彼女の『命』であり、それを簡単に差し出すようでは生きていけないのだ。
「だよなぁ……」
 メイドは残念そうに呟いて頭を掻いた。続いて「よっこいしょ……」と年寄りのような掛け声で立ち上がり、スカートの裾をぽふぽふと払った。
 どうやらこのメイドはただのお人好しのようだ。
 と彼女は内心でほっと安堵し、少しだけ警戒を緩めた。
「おいおい、まだそれは早い」
「……っ」
 にやり、とメイドが笑っていた。いつの間に取り出したのか、その左手には銃が握られており、銃口が真っ直ぐ彼女の眉間に向けられていた。ドイツで暮らしていたころに実物の銃を見たことがあったが、それと同じ圧倒的な存在感のある冷たさが、暗い銃口の奥に潜んでいる。
「コイツを使わずに済めばよかったんだけどナ」
 笑っているのに、ぞっとするほど剣呑な目つきでメイドは言った。先ほどまでの暢気な調子とは打って変わって、トリガーを引くことに何の躊躇いもないと言わんばかりの酷薄な声。笑顔なのに感じる気配は正反対で、まとわり付くような冷たさが全身を撫で上げた。
 ぞく、と彼女の背に悪寒が走る。
「…………」
 今までに殺意を向けられたことは何度もあった。実際に刃物を突きつけられ、脅しの言葉を投げつけられたこともあった。堅気にはない迫力にひるんだこともあった。
 しかし今この瞬間に受けるプレッシャーは、そのどれもが子供だましだったと思えるほどに息苦しく、意識の温度を奪っていく気がした。命の温かさを少しずつ失って、そのうち身体が凍てついて動かなくなり、ただの木偶になってしまう。そんなのっぴきならない圧力だった。
 今になって彼女は、このメイドがそういう類の人間だったと理解した。ルールに反して穏便に済ませるのは最悪手だとしても、メイドの性質の見極めなどせず、口先だけで支払うと言っておいて逃げるという手段を選ぶべきだった。あるいは、メイドの返答に気を抜かずに警戒を続け、銃口から逃れるべきだった。
 彼女は、重要な局面で打つ手を間違えたのだ。
(……ああ、ここで終わるのか。なるほど)
 妙にスッキリした気持ちで、彼女はふとそんなことを思った。ミスをしても命にかかわるような事にならない場面では一度も失敗しなかったのに、即致命傷に繋がる場面でミスを犯してしまうとは、なんと因果なものか。
 関わるな、さっさと逃げろ、と度々警告していた彼女の直感は正しかった。正しかったが――奇妙なメイドの態度に油断してしまっていた。金のかかった勝負とは何の関係もないところでミスが許されない選択に迫られるなど、予想もしていなかった。その結果メイドの銃弾に倒れて終了になるなどとは、百戦錬磨の彼女でも見抜くことはできなかった。
 なんとも笑える話ではないか。一体どんな喜劇だ、とおかしさを堪えきれなくなり、ふふふ、と笑い声がこぼれた。
「あ? なんだよ?」
 突然笑い出した彼女を訝って、メイドは眉根を寄せた。
「いえ、すみません。先ほどの質問ですが、答えは『ノー』です」
 諦めてしまえば気は楽になるし、開き直ることもできる。意地でも三百万は渡す気にはならなかった。殺されてから奪われるとしても、意識があるうちはこの手に抱え続けてやると決めた。
「ほう。命を粗末にしたいと?」
「ええ、まあ、マイルールというやつですよ。勝った分は決して返さない。そのルールを自らに課している以上、覚悟は常にしています。いつかこういうことになるとわかった上でやってきましたからね」
 ひょい、と肩をすくめ、彼女は笑みを浮かべた。
 メイドは銃のハンマーを起こし、じっと照準越しに彼女を見ていた。長く伸ばした前髪に隠れた目を――その真意を見ようとするかのように。
 しん、と周囲から音が消えた。真夜中の裏路地と言っても、すぐ側の通りにはまだまだ人は行き交っている。その喧騒が先ほどまでは届いていたのに、今はそれが何光年も彼方に離れてしまったかのようだった。
「……あ、撃つ際に一つだけお願いがあるんですが」
 沈黙を嫌ったわけでもなく、彼女は思い出したように言った。メイドの眉がピクリと跳ねる。
「撃つなら、私の右目を狙っていただけませんか。うんざりしてるんですよ、この目には。どうせ死ぬなら、こいつを潰してほしいんです」
「…………」
 彼女の奇妙な申し出を聞き、メイドはわずかに眉間にシワを寄せた。目を撃てとはどういうつもりで、それに何の意味があるのか――そういったことを考えているわけではなく、本気で殺されるつもりかどうかを見極めようとしていた。メイドにとって撃つ場所などはどうでもよく、本気かそうでないか、それだけが重要だった。
 メイドの沈黙を申し出を考慮していると勘違いしたか、彼女はさらに続ける。
「ああ、そうですね。私の目を撃ってくださるなら、私の願いを聞き入れていただいたお礼として三百万はお持ちくださって結構ですよ。ここに入っています」
 と肩から提げていたバッグを開いて見せた。そこには間違いなく帯付きが三つ入っている。しかしメイドはそれに目もくれず、諦めとも悟りともとれる、穏やかな笑みを浮かべた彼女を睨みつけていた。
「……冗談で言ってるようには見えないし、戯言であたしを油断させようとしているようにも見えないな」
「それはもう、決して冗談などではありませんから。さあ、どうぞ私の右目を撃ってください。私の大嫌いなものを葬ってください」
「そうか」
 まるでつまらないジョークを聞き流すような口調でうなずいて、メイドは躊躇せずトリガーを引いた。その思い切りの良さに目を閉じる暇もなく、ハンマーが落ちる。



        後編に続く…


 
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